蟷螂の斧

第15回 後悔必至の外国人労働者受け入れ

「外国人労働者問題は数が質を決定する」――この言葉は非常に印象に残る言葉で、私がこの問題を考へる時、しばしばこの言葉が頭をよぎる。この言葉は、年号が昭和から平成へと変はる頃、即ち一九八九年前後に、評論家西尾幹二が並み居る「開国派」に対してたつた一人で繰り返し反論する中で使つた言葉である。当時、私が大きな刺激を受けた西尾の著作(『「労働鎖国」のすすめ――外国人労働者が日本を滅ぼす』光文社、一九八九年九月初版)を久しぶりに書棚の奥から取り出して目を通すと、十五頁に「数量が質を決定づけている」とあつた。

ともあれ、この言葉はこの問題の核心を突いてゐると思はれる。例へば、小学校の一クラス三十五人の中に一人や二人、外国人の子弟が入つて来ても、大した問題にはならない。人の好い日本の子供たちは、好奇心もあつて何くれとなく世話を焼いてあげるだらうし、相手が感謝の気持ちを表現するなら、おそらく上手くゆく。だが、十人の外国人子弟が入つて来たらどうだらうか。彼らは自分たちの母語を仲間内で堂々と使ひ始めて一つの「閥」を作り、二十五人の日本人子弟たちとの間に必ず溝が出来るであらう。

ここに一冊の本がある。各種政体を旧約時代まで遡り、帝国主義や国民国家などを論じたイスラエルの宗教・政治哲学者にして聖書研究者のヨラム・ハゾニーの著作である。そこで彼は次のやうに書いてゐる。「切っても切れない絆で結ばれたまとまりのある一つのナショナリティ〔国民性〕の圧倒的優位性こそが、むしろ自由国家に国内平和をもたらす唯一の基盤なのである。(略)安定した自由な国家の構築に必要なものは、文化的優位性が疑う余地のないほど明白で、〔部外者が〕抵抗は無益だと思えるような、多数派のネイション〔国民〕である」(『ナショナリズムの美徳』庭田よう子訳、東洋経済新聞社)。ここでの「ナショナリティ」を日本人小学生の共通の性質・文化、「ネイション」を日本人生徒たちと入れ替へれば、学校の「平和」に必要なものが何かが良く分かるであらう。

そして、この「国内平和をもたらす唯一の基盤」の崩壊が、「移民」政策に転じた西洋の国で起きてゐることなのである。この場合、小学生ではなく大人であり、しかもそこに宗教が絡む。一層複雑な問題となるのは明らかであり、恐ろしいことに、それはもともとその国に存在してゐた文化の変容、もつと言へば文化の死滅をもたらすのだ。既にあちこちで何度も紹介して来たが、英国のジャーナリスト、ダグラス・マレーが『西洋の自死』(町田敦夫訳、東洋経済新報社、二〇一八年)で描いた世界はそれである。この本の解説で中野剛志が言ふやうに、「我々日本人は、本書を『日本の自死』として読み換えなければならなくなった」のかも知れない。

明治の昔、実に慧眼の作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は書いた。「人生の喜びは、周囲の人たちの幸福にかかっており、そうであるからこそ、無私と忍耐をわれわれのうちに培う必要があるということを、日本人ほど広く一般に理解している国民は他にあるまい」と(『新編・日本の面影』池田雅之訳、角川ソフィア文庫。読みにくいので読点の位置を少し変へた)。これを「所詮、外国人の色眼鏡」などと冷笑する皮肉屋にはなりたくないものだ。百年以上たつた今でも――多少の変化はあるにしても――「他にはあるまい」と、ヨーロッパ経験のある私は思ふ。だからこそ、来日した外国人観光客も多くが感激して帰国の途に就くのではないか(外国のYouTube番組には「Do not go to Japan」(日本に行くな)といふのがあるさうで、要するに、日本に滞在すると母国に帰りたくなくなるから、といふ意味とのこと)。

文化と日常を表した象徴的なイラスト
AI生成イメージ(実際の人物・出来事を撮影したものではありません)

しかし、さういふ日本人の持つている「無私と忍耐」が、つまり「文化」が、「移民」の増加により窒息させられさうになつてゐる現実が目の前にあるのは周知のことであらう。川口市・蕨市のクルド人たちの狼藉、東京近郊のチャイナタウンなどでの地元民との軋轢、等々、挙げればキリがない。欧米ではしばしば見られることだが、怒り狂つた日本人による外国人の襲撃などが勃発しないのは、日本人の人の好さのほか、国内に銃が出回つてゐないからに過ぎない――好ましいことであるが。

そして、それと同時に深刻な問題があつて、西尾が予言したやうな、「日本人は外国人労働者に対して必ず加害者になる」といふ点だ(西尾、前掲書)。当時の議論は、「貧困国から労働者を受け入れてやるのが経済大国日本の義務であり、ヒューマニズムである」といふ馬鹿げた思想が主流を形成してゐて、その点に気付いてゐたのはほとんど西尾だけだつた。「週刊朝日」(一九八八年九月二十三日号)の対談で、「看護婦」(当時の呼称)が足りなければ「フィリピン人女性を使えば良い」と言ふ深田祐介に対して西尾は「老人の介護に外国人女性を呼ぶのなら、その外国人女性もまた必ず老人になる。そのとき彼女のベッドサイドには誰がつくのか。そこまで考えないで、安易に受け入れを口にするのが間違いのもとなのである」とする。これは当時の論壇の潮流の中では斬新な指摘であつても、今考へれば、「常識」を語つたに過ぎないとも言へる。

けれども、この「常識」は、外国人労働者受け入れがヒューマニズムではなく労働力不足=経済的問題として論じられる現在でも極めて核心を突いた指摘である。外国人労働者の受け入れは、どのやうに理屈をつけても、エゴイスティックな要求、期待であることを我々は知るべきだ。たいていの場合、先づは所謂「3K」の仕事をあてがふのが何よりの証拠である。産業界の本音は「安い労働力が欲しい」といふことではないか。そして、今はまだ基本的に日本人が「3K」の仕事を担つてゐるが、その就業者のほとんどが外国人によつて占められる事態になると、日本人は「3K」の仕事に決して就かなくなるであらう。もう三十年以上前の話であるが、フランスではその種の仕事に就いてゐる白人の姿を見たことがなかつた。

それから、二月二十八日の「産経」紙面が大きく取り上げて指弾したやうに、本来専門職に就く在留資格(「技術・人文知識・国際業務(技人国)」)を持つ外国人を単純労働に従事させ、しかも賃金未払ひが発覚するなど、実に日本といふ国に泥を塗るやうな企業経営者も少なからずゐる。これも日本人が「加害者」になるといふ例である。

新しい制度では職業上のスキルを持ち日本語も一定の水準で理解できる「特定技能二号」といふ区分があり、これは単純労働者ではないので家族を帯同できるとされてゐるが、子供や配偶者の日本語教育、健康保険、介護の問題、亡くなれば亡くなつたで埋葬(土葬)の問題など、これらをきちんと制度設計できずに受け入れるなら、それは西尾の言葉を借りれば「人倫に悖ること」ではないか。

働く人を支える制度を表した象徴的なイラスト
AI生成イメージ(実際の人物・出来事を撮影したものではありません)

報道によれば、技能実習に代はる外国人材受け入れ新制度「育成就労」の運用方針を議論する政府の有識者会議が一月七日に開かれ、制度開始の令和九年度(二〇二七)から二年間の受け入れ上限を約四十二万六千人とする素案について意見交換をし、大きな異論は出ないまま、全十三回の会議は終了した。素案では、育成就労からの移行を想定する既存制度「特定技能」の上限を、二十八年度末までは約八十万五千人とし、結果、両制度合はせて約百二十三万一千人まで受け入れ可能となる。いずれも労働力不足を補ふのが目的で、対象の産業分野ごとの人手不足数などから算出した。育成就労の対象は農業や建設、工業製品製造業など十七分野。原則三年働いた後、技能試験と日本語試験に合格すれば、中長期に在留可能な特定技能に移行できる(以上、「産経」一月八日付けによる)。

だが、百二十三万といふのは、「育成就労」を四十四万人から二万人減とし、特定技能を八十二万から同じく二万減とした数字であり、必要数を「精査」した結果ださうだが、日本の人口一億二千三百万の一%を基準としたやうにしか思へないのだが、どうだらうか。それに、先づ制限人数を決めてから、後に見るやうな取り締まりの方策を決めるのは、順序が逆ではないかと私は思ふ。制限人数と言ふけれど、その数字に達するまでは受け入れて良いといふ発想に傾きがちだし、そのやうな数字に囚はれずに、真に必要ならもつと入れれば良いし、不必要なら少なければ少ないほど結構なはずだからである。

そして同月二十三日に「外国人受け入れと秩序ある共生社会の実現に向けた包括的対応策」が閣議決定された。この内容は出入国在留管理庁のHPで見られるが、読者の便を全く無視した如く、読みにくい文章や表が出て来るので通読することは難しいけれども、要するに、我が国の法令を遵守しない外国人をしつかりとコントロール下に置くことが主眼であるから、それ自体は結構なことである。

しかし、平成三十一年に設立された出入国在留管理庁の前身である入国管理局時代から現在に至るまで、技能実習生が年平均で一万人近くが失踪してゐて、そのうち二十五%は所在が不明である。そして、不法在留者の取り締まりや本国送還はさう簡単なことではないことは数々の報告で明白だ。「難民」を隠れ蓑にした「送還忌避者」も数多い。出入国在留管理庁のHPによれば、昨年七月現在で不法残留者が七万一千二百二十九人もゐるのだ。新しく組織替へした程度のことで、さう簡単に改善できるとはどうしても思へない。高市政権の着眼と実行力には敬意を表するけれども、やはり、「移民」「外国人労働者」を受け入れて成功した国は皆無であるといふ厳しい現実を見なければならない。「絶対に後悔することになる。そしてそのときは、後悔先に立たずである」と断言できるのではないだらうか。自主的帰国者に対して、アメリカは一人十四万円、スウェーデンに至つては五百万円出すとしてゐるが、それでも帰らないのである。

そもそも、経済産業界の要請により始まつた外国人労働者の受け入れであるが、それ以外に手はないのか。常識的に考へれば、「生産性の向上」があるだらう。まともな経済学者は皆さう言つてゐる。筆者は経済に暗いので、経済学者の説に従へば、①設備投資(工場や設備の充実)、②人材投資(経営者が従業員を大切にする)、③公共投資(交通インフラの整備)、④技術投資(技術のレベルを上げるための投資)などが「生産性向上に不可欠な四つの投資」である(三橋貴明、後掲書)。

生産性への投資を表した象徴的なイラスト
AI生成イメージ(実際の人物・出来事を撮影したものではありません)

これに加へるとすれば、もう一つ、「労働参加率」といふものがある。つまり、十五歳以上の人口に占める労働力人口(従業者+休業者)の割合のことで、十五歳以上六十五歳未満の労働参加の促進も効果があるだらうと思ふ。六十で定年退職してもまだ働きたい、働ける、といふ日本人は少なからず存在する。

また、税金の話は複雑で理解が難しいけれども、もつと働きたい、働けるといふ人々が税金の所為で労働量を減らすといふのは非常に勿体ない話で、数々の禍根を残すに決まつてゐる外国人労働者を増やすくらゐなら、さういふ人たちが働けるやうに抜本的な税制改革を行ふべきであらう。

働き方と税制を表した象徴的なイラスト
AI生成イメージ(実際の人物・出来事を撮影したものではありません)

ともあれ、自国を、自国の経済を、自国の文化を、自分たちで護るといふ同胞意識の欠如が外国人労働者に頼らうとする心性を醸成してゐるのではないか。だから、右の問題は経済を超えて、国防問題とも踵を接してゐるのかも知れない。<了>(敬称略)(令和八年三月十六日)

【追記】(読書案内)

本文中で触れた西尾幹二著『「労働鎖国」のすすめ――外国人労働者が日本を滅ぼす』(光文社、一九八九年)は、日本人の必読書であると思ふが、既に入手困難である。のちにPHP文庫にも入つたが、これも残念ながら入手困難であると思はれる。さうなると、同じく西尾著『中国人に対する「労働鎖国」のすすめ』(飛鳥新社、二〇一三)を読むしかない。これの第一部は中国人問題に特化した二〇一三年現在の西尾の主張が書かれてゐて、第二部として、一九八九年の『「労働鎖国」のすすめ』が再録されてゐる。だが、これも古本価格が高価であり入手困難だが、調べて見ると電子書籍としては廉価で読めるやうである。また、運が良ければ地域の公立図書館で読める可能性もある。

それから、やはり西尾幹二編集による『中国人国家ニッポンの誕生』(ビジネス社、二〇一四年)もあり、これは今は亡き優れたノンフィクション作家関岡英之をはじめとして、中共、経済などの専門家たちの論集であり、多面的な考察に価値がある。また、経済評論家の三橋貴明著『今や世界5位「移民受け入れ大国」日本の末路』(徳間書店、二〇一七年)もある。「移民の受け入れ、国民の自由、安全な国家」の三つの同時成立は無理であるといふ立論は説得力絶大である。

右の書籍は、移民問題をどう考へるかといふ、言はば「思想篇」であるが、一方、丹念且つ長期的な取材で移民の「現実」を白日の下に晒した『国会議員に読ませたい「移民」と日本人』(産経新聞取材班、二〇二五年)は、話題の焦点は川口市のクルド人であるが、彼らの圧倒的に多くが実際には「政治難民」ではなく、「出稼ぎ」であるといふことを明らかにした功績は大きいと思ふ。本来、そんなことは出入国在留管理庁がとつくに調べ上げてゐるべきものなのだが。

また、「讀賣新聞」特派員としてドイツに長く駐在経験のあるジャーナリスト三好範英の『移民リスク』(新潮選書、二〇二五年)は、川口市のクルド人問題のみならず、「移民規制に舵を切ったドイツ」の様子が良く分かる。さらに、送還手続きをする間に一時的に収容する全国十七の施設での入国警備官の「過酷な日常」も描かれる。

最後になつたが、川口市のクルド人の問題を体を張つて世に知らしめたジャーナリスト石井孝明の警世の書『埼玉クルド人問題――メディアが報道しない多文化共生、移民推進の真実』(ハート出版)も忘れてはならないと思ふ。副題にあるやうに、メディアの不作為には強い憤りを感じる。

吉田好克

吉田好克について 吉田好克は、神道・宗教・日本思想・歴史・政治・社会について、長年にわたり研究・教育・執筆を続ける論者です。 その関心の中心にあるのは、個々の時事問題そのものではありません。 日本とは何か。 日本人はいかに生きるべきか。 歴史や伝統を、現代にどう受け継いでいくのか。 そうした根源的な問いを、宗教、思想、歴史、社会のさまざまな角度から考え続けています。 論考では、福田恆存、江藤淳をはじめとする先人の思想や、国内外の文献を幅広く参照しながら、現代社会で当然のように語られている価値観や言説を改めて問い直します。 その姿勢は、特定のイデオロギーから現実を説明するのではなく、歴史、伝統、人間の営みという現実から、思想や制度を見つめ直すことにあります。 連続論考「蟷螂の斧」では、外国人労働者問題、戦後日本とキリスト教、原爆忌と平和思想、安全保障、靖国神社、保守思想、政治家論など、現代日本が直面する問題を幅広く取り上げています。 「蟷螂の斧」という名の通り、たとえ小さな力であっても、疑問を抱いた問題には自らの言葉で向き合う。 その文章には一貫して、日本の歴史と文化を次代へどうつなぐのかという問題意識があります。 本サイト「吉田好克.jp」では、「蟷螂の斧」をはじめ、これまでに執筆された論文、評論、寄稿、講義資料などを整理し、吉田好克の知的成果をデジタルアーカイブとして公開していきます。

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