アメリカがイランへの攻撃を開始してから一箇月以上経つた。トランプ大統領の言ふ「ディール」は「駆け引き」のことであり、記者会見などでの言葉も常にコノテーション(言外の意味)を多用するので、私などには真意を推し量ることはできない。一方、オールドメディアに重宝されてゐる「識者」たちはトランプ大統領の心中まで推し量ることができるらしい。たいしたものだが、その割には話すことは床屋政談の域を出ないものが多い。
ホルムズ海峡の封鎖といふやうなことが浮上して来ると、原油の高騰をめぐり我が国も暖気(のんき)に構へてはゐられなくなり、オールドメディアをはじめ蜂の巣をつついたやうな騒ぎとなる。無論、それは「尻に火が付く」やうな事態であるから一面で仕方のないことだと思ふけれども、オールドメディアの報道やそこでの解説者たちの言ひ分はたいていの場合、場当たり的な「分析」ばかりで、我が国は今後どうするべきかといふ「指針」のやうなものがほとんど無く、しかも、話題の中心は物価の上昇であつて、決して戦争の意味を闡明しようとはしない。

とにかくトランプ=米国を非難し、どうして米国がイスラエルを支援して、一万キロも離れてゐるイランに空爆を続けるのかをきちんと解説することはしない。ひと頃は、トランプの「石油欲しさ」だとまことしやかに言はれたが、アメリカが世界最大の原油産出国であることが広まり、その説が唱へられることはなくなつた。
一方で、「イランは親日国家」だと言ふ識者が多いが、それなら二〇一九年に安倍晋三首相が当時の最高指導者ハメネイとイランで会談したまさにその日、ホルムズ海峡で日本のタンカーが攻撃炎上させられたのはなぜなのか。その後も、日本企業のタンカーやコンテナが相次いで自爆ドローンで攻撃されたのはなぜなのか。また、次のやうな問ひもあり得るであらう。「〔イランが〕シリアのアサド政権、レバノンのヒズボラ、パレスチナのハマス、イエメンのフーシ派、イラクのシーア派民兵等の代理勢力を使嗾し、中東地域、世界でテロ行為を支援したのは合法か?」(山上信吾「国際法至上主義の陥穽に嵌るな」『産経新聞』四月九日付)。トランプには、プーチンのやうな領土的野心は皆無である。だとすれば、硬直したイスラム原理主義政権による、核兵器転用可能な高濃縮ウラン製造を傍観できなかつたといふ大儀もあると我々は考へるべきではないか。
何か大きな政治的事件が起きると感じることだが、NHKをはじめとする地上波放送のあまりに政治的な偏向は問題である。NHKは特派員による報告・解説よりも米国のABCニュースを頼りにしてゐるけれども、この放送局が正しいといふ何か根拠があるのだらうか。日本ではメディアが不偏不党であることを理想のやうに語る人が多いが、人間が果たして真に「客観的」足り得るかを考へたことがないらしい。欧米では、日本のやうに報道の「客観性」といふもの問はれない。むしろ、新聞にせよテレビにせよ、党派的立場を隠しはしない。如何にも権威があるやうに引用されるCNNもアメリカでは「コミュニスト・ニュース・ネットワーク」と時に揶揄されるのである。日本において、仮に立憲民主党が放送局を所有し、テレビニュースを放送してゐるとして、誰がその報道を「客観的」と考へるであらうか。ABCもCNNも民主党支持であるから、当然のことながらアンチ共和党であり、NHKもそれに倣つてゐる。だから、オバマやバイデンに甘く、トランプには批判的な報道が多くなる。「朝日」「毎日」「日経」「共同通信」もまた同様である。
さらに良くないのは、部分的な切り取り報道が横行してゐることである。イスラエルとハマスの戦争でも、日本のテレビは最初にガザの様子を映し、正確かどうかも検証しないまま子供の被害者数を殊更に強調するが、イスラエル側の映像は圧倒的に少ない。そもそも、令和五年十月七日、テロ集団ハマスがイスラエルにロケット弾数千発を撃ち込み、音楽祭を急襲してその場で千二百人以上を殺害、約二百五十人以上を拉致したことが発端となつた戦争である。「先に手を出した方が悪い」といふ日頃の論調はどこに行つたのか。かうした次第で、テロ集団ハマスはガザの住人を助けようとするどころか、所謂「人間の盾」として使ひ、小学校の地下に基地を作つてゐるといふやうな事実があまり報道されないので、それを知る日本人は決して多数派ではない。

ジャン=フランソワ・ルヴェルといふフランスの一流の哲学者にしてジャーナリストが書いてゐる。「超大国アメリカの台頭は、言うまでもなく、他の国が自ら犯した失策を原因とする、弱体化や崩壊、発展の欠落がもたらした結果である。しかし、それらの国々は、この事実を認めようとしない」と(原題は『反米といふ妄想―その作用・原因・矛盾』である。この書については追記参照)。「認めようとしない」といふことは「反省しようとしない」といふことだ。
実際、NATOの有力国首脳たちは、ロシアとウクライナの戦争も米国とイランの戦争も、米国よりも身近な戦争であるにも係はらず、先づはトランプの動きを注視し、次に左見右見しながら自分たちの行動を決めた。我が国も同じである。高市首相は我が国の「憲法」と「平和安全法制」の枠の中では精一杯できることをトランプに説明したとは思ふ。けれども、トランプは協力を要請した国々が動かないのを見て批判し、日本も最後には批判された。当然だと思ふ。
このやうな時、唯一の同盟国を助けることのできぬ憲法や法律などを改正しようといふ大きな国民的議論が盛り上がることはないし、二言目には「世界平和」を唱へる同胞も、何もできない自分(自国)を何ら恥ぢることがない。つまり、「反省しようとしない」のである。かくして、我が国の憲法に言ふ「国際社会において名誉ある地位を占めたいと思ふ」が全くの空文と化すのである。NATOもさうである。首脳も国民も厭戦気分だけがあるやうだし、そして、そのことを批判したり残念に思ふ論者はヨーロッパでも日本でも地上波に登場することが少ない。「トランプの孤独」と言ふ所以である。
以下に引用するパスカルの言葉は、何度か引用してゐるので恐縮だが、正義と力をめぐる簡明にして間然とするところのない考察であり、何度も読むに値すると思ふ。
「力なき正義は無力であり、正義なき力は圧政である。力なき正義は反抗に遭ふ。なぜなら、常に悪人は絶えないからである。正義なき力は弾劾される。それゆゑ、正義と力とを一緒にしなければならない。そのためには、正しい者を強くするか、強いものを正しくしなければならない。/正義は議論の対象となる。力は承認されやすく、議論は無用である。それゆゑ、人は正義に力を与へることが出来なかつた。と言ふのも、力は正義に反抗し、お前は不正義で、俺こそが正義であると主張したからである。/かくて、正しい者を強く出来なかつたので、人は強い者を正しいとしたのである」(『パンセ』)。

「力なき正義は無力」であるのは、拉致問題の停滞に切歯扼腕してゐる者なら誰でも痛感することであり、「正義なき力は圧政」だといふのも、金正恩やプーチンやイランの故ハメイニらのことを思へば、誰にでも分かる道理であらう。が、ここで重要なのは、パスカルの主眼はあくまでも「正義と力とを一緒にしなければならない」といふ一点であるといふことだ。今なほ天使の世界ならぬ「禽獣世界」たる人間の世界にあつて、信奉する自らの正義がそれとは相容れない別の正義の抵抗に遭ひ、そしてその齟齬対立が、交渉などが無力となる極点にまで達すれば、最後は力勝負となり、それが国と国との対立ならば戦争へと突き進むことになる。それゆゑ、戦争はなくならず、だからこそ、まともな国には軍隊があるのだ。勿論、むやみに戦争をすれば良いといふものではないが、如何なる交渉事にせよ、戦争の覚悟や軍事力の裏付けの有無により、結果が大きく異なること、つまり、自己の正義を相手に呑ませる分量が異なること、それだけは確かである。
先に触れた音楽祭へのハマスの急襲の際、当時の岸田文雄首相は「X」において、「すべての当事者に最大限の自制を求めます」といふ所見を発表したが、政治家としてこれほど愚かな行為はなく、日本国民として穴があつたら入りたいぐらゐであつた。「政治には、それ〔魂の救済〕とはまったく別の課題、つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある」とマックス・ウェーバーが言つてゐる(『職業としての政治』岩波文庫)。
それに、福田和也が生きてゐれば、「日本以外の、世界中の多くの国民が、自らいつかは戦場に赴くかも知れないという覚悟のもとに生きている」と言つたであらう(『人間の器量』新潮選書)。あちらこちらに気を遣ひ、「ま、お平らに、お平らに」と言ふだけでは何も生まないし、むしろ逆であることを知るべきだ。フランスではpacifiste(平和主義者)とは日和見主義者とほとんど同義であり、フランスを代表する辞書には「平和主義は時に戦争を招き、寛大は犯罪を招く」といふプルーストの言葉が引用されてゐる。
今回、アメリカとイランの戦争に関して、両国の仲介役を務めたパキスタンのシャリフ首相 により、二週間の即時停戦が宣せられた。どのメディアも基本的には好意的に取り上げてゐて、筆者も天邪鬼ではないつもりだから、この休戦が終戦に繋がれば良いと願ひはするが、現実といふものはそんなに単純ではないだらう。思ひ起こして欲しい。一九九三年に、イスラエルのラビン首相とパレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長が歴史的な「オスロ合意」を結び、世界は驚喜したが、その時ラビンは「平和には必ず敵がゐる」と言つた。そして、実際に自国のユダヤ人青年に暗殺されたのである。
ルーマニア生まれでイタリア、イギリス、アメリカで研究を行つた戦略家にして国防アドバイザー、エドワード・ルトワックに『戦争にチャンスを与えよ』(奥山真司訳、文春新書)といふ本がある。平和主義者が目を白黒させさうな書名の意味は、「平和は戦争によつてもたらされる」といふ逆説である。つまり、当事者(国)が徹底的に戦つて勝負がつくことが大事で、そこで初めて平和が訪れる。だから、第三者が介入して停戦や休戦などを押し付けると、「平和につながる敗戦の否認を劣勢側に許し、戦争状態を永続化させてしまう」ことになるといふわけだ。著者はさういふ不幸な例をユーゴスラビアの内戦やセルビアとクロアチア、ボスニアとヘルツェゴビナの紛争などに見てゐて、説得力がある。この伝で言へば、わが日本国の場合、完膚なきまでに敗れたことにより、むしろ再出発できたと言へさうである(もちろん、昭和天皇のマッカーサーを感動せしめられたご見識と聖徳、そして日本人伝来の――小泉八雲の言ふところの――「無私と忍耐」などが幸ひしたと思ふけれども)。

ルトワックはワシントンにある大手シンクタンク、米戦略国際問題研究所の上級顧問を務めてゐて、今回の戦争でもトランプに戦略的知恵を授けてゐた可能性が高い。もしさうであるとすれば、トランプの「地獄を見る」とか「石器時代に戻す」とかの脅迫めいた威嚇の言葉も、本気なのではなかつたか。
今後の帰趨は筆者には全く分からないが、テロ支援国家イランの世界的野望を打ち砕くためには、中途半端な妥協よりも、徹底的に決着をつけるべきだといふ思ひも捨て切れない。ペルシャ人のイスラム的な誇りとキリスト教福音派の原理主義――T・S・エリオットの言ふ「拒否と排除」――の戦ひでもあるのだから、今後も火種は尽きないのではないかとの覚悟が我々には必要なのではなからうか。<了>(敬称略)(令和八年四月十二日)
【追記】
ジャン=フランソワ・ルヴェルの翻訳本は『インチキな反米主義者、マヌケな親米主義者』(薛善子訳)といふ題名で出版された(アスキー・コミュニケーションズ刊)。売り上げを当て込んだ実に俗悪な題名であり、このやうな題名で世に出たことが残念でならない。出版社はその後社名を変へて現在はアスコムだが、健康や料理など所謂「ハウツー本」を多く出してゐるところを見ると、このやうな「思想本」を出すやうな出版社ではなかつた。著者はアカデミー・フランセーズ会員であり、フランスを代表する知識人で、まともな哲学者であるから、日本語を読めずに幸ひだつたと言へるであらう。















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