前回に続き、「憂鬱なる月」八月について。
周知のやうに、高市早苗首相は八月十五日、靖國神社参拝を見送り、玉串料奉納だけを行ふに留まつた。首相になるずつと以前から、終戦の日にも春秋の例大祭にも靖國神社参拝を続けてゐた高市首相は、様々な機会に「首相になつても参拝を続ける」と表明してゐて、筆者のやうな伝統重視の「保守系原理主義派」の喝采を浴びてゐたが、昨年十月四日の新総裁就任会見では「適時適切に判断する」「同盟国や周辺諸国にも理解を得る環境づくりが必要」と述べて、旗幟鮮明にするのを避けてゐた。それゆゑ、今回の参拝見送りは予定の行動だつたのだらうか。勿論、筆者は非常に残念に思つてゐる。
真相は分かりかねるが、高市首相にしてみれば、中共や韓国などは何をどのやうにしようと難癖を付けて来るのは先刻承知であらうし、昨年十一月以降の国会で論戦となつた「集団的自衛権」発言について、中共による難癖や嫌がらせにも一歩も引かなかつた彼女が靖國参拝に関する中・韓による外圧に屈したとは考へにくい。
永田町で関係者に直接に取材するわけではない筆者のこれは推測だが、米国=トランプからの要請があつたのではないか。トランプ大統領にしてみれば、現在最大の問題はイランとの実力行使を含む外交交渉であり、今は東アジアで波風が立つのは好ましくないだらう。その証拠にとまでは言はないが、十六日になつてトランプは米韓合同演習の規模縮小を公表し、十七日には北朝鮮の金正恩総書記との友好関係を急に言ひ出した。トランプから直接の容喙があつたかどうかは不明ながら、外務省など関係者の言ふ「外交関係に配慮」とはさういふことではなかつたか。
しかし、高市は一方で、自分を支持してくれてゐる保守系の国民の気持ちも考慮したに違ひない。即ち、全国戦没者追悼集会が開かれた日本武道館に着くなり、車を降りて靖國神社の方向に向かひ、神道の正式な作法による「遥拝」を行つたといふ。閣僚が小泉進次郎など計四名、自民党四役のうち三名が揃つて参拝した(小林政調会長は地元の千葉豪雨災害対策のため翌日参拝)。このことによつても、高市内閣としてのそれなりの姿勢は示し得たのである。

そして、仕上げは追悼集会での式辞である。高市は昨年、石破茂が復活させた「反省」の語を踏襲せず、岸田以来の「教訓」の語も使はなかつた。そして、歴代首相のほとんどが使用した「戦争の惨禍は二度と繰り返さない」といふ自虐史観そのものの言葉も高市は使はなかつた。この言葉の意味するところは、先の戦争の原因が偏に我が国にあり、それは「悪」だから繰り返さないといふことになる。また、戦争に「惨禍」は付き物だから、侵略されても二度と戦争はしないといふ「不戦の誓ひ」にもなり、さうなれば、自衛隊は無用の長物となり果てるではないか。何より、戦争の「大義」を信じて国のために戦ひ散華した英霊たちの顔に泥を塗ることであると分かつてゐるから、彼女は「繰り返させない」としたのであらう。これは終戦の日の首相式辞としては画期的であり、「技あり」と言へるかも知れない。
「産経新聞」の木津悠介記者は、この部分について、「日本は再び戦争をしないと自ら誓うだけでなく、(略)抑止力を高めて戦争そのものを起こさせないという姿勢をにじませた表現に読み取れる」と自己の解釈を書いたが(十六日付)、前半は間違ひである。何度でも言ひたい。全うな国の大統領や首相が、今なほ弱肉強食の「禽獣世界」にあつて、一方的に「不戦の誓ひ」なんぞを立てる道理があるものか(もしもあるのなら教へて欲しい)。それに、あの高市首相が自衛隊の最高指揮官として、「戦争を繰り返させない」などと自衛官諸氏に予め足枷を嵌めるやうなことを言ふはずがない。「させない」はあくまでも覇権主義の国々に対してであることは明白だ。国防とはさういふものであらう。
「産経新聞」に掲載された「式辞全文」によれば、この「戦争の惨禍を、二度と繰り返させない」といふ一行を前後の文とは切り離して独立させてゐる。高市首相がこの一行に籠めた並々ならぬ気魄のやうなものが伝はつて来るではないか。

高市式辞との関連は不明だが、森英介衆院議長と関口晶一参院議長の二人の追悼の辞にも「反省」「教訓」「二度と繰り返さない」などの言葉は無く、両者共に未来志向の言葉を連ねた。これも画期的なことである(非力ながら、これまで何度も歴代首脳たちの式辞を文章や講演で批判して来た筆者としては、漸くここまで来たかといふ、些かの感慨が無いわけではない)。
ともあれ、高市首相の今回の式辞は、「不戦の誓ひ」といふ「鵺」(ぬえ)のやうな言葉を使はなかつたことだけでも、高く評価されるべきである。なぜなら、戦争は未来永劫、決して無くならないからである。なぜか。まともな人間は「意味ある生」を希求するからで、その「意味ある生」は正義の裏付け無しには存在せず、そして「正義とは不正の処罰」(長谷川三千子『正義の喪失』PHP研究所)だからである。仮に、目の前で行はれてゐる「不正」に何の痛痒も義憤も覚えず、平気の平左でゐられるとするなら、その者はもはや人間ではない。だからこそ、「ただ生きるのではなく、よく生きること(=意味ある生)が大事だ」と説いたソクラテスから二千四百年以上経た今日でも戦火が絶えることが無いのである。
『永遠平和のために』を書いたイマヌエル・カントも、実際の平和に繋がる処方箋を書けたかと言へば、「おそらく、永遠平和は在りうるものではないにしても、我々はそれが在りうるものであるかのように行為しなければならない」と書くのが精々であつた(『人倫の形而上学』加藤・三島訳、中央公論社)。そこで、帝政ロシアの哲学者ベルジャーエフは「カントの倫理学は現実の人間には何の用もなかったのである」と批判したのである(『著作集③人間の運命』野口訳、白水社)。

ところで、十六日の「産経新聞」に各党の談話が載つてゐる。要約すれば以下の通り。中革連、国民民主党、公明党は「非核三原則の堅持」「核兵器廃絶を目指す」(自民党も「核兵器の無い世界の実現」)。チームみらい、立民党、共産党は「平和主義」「不戦の誓い」「専守防衛(共産党は今なほ破防法に基づく公安の調査対象団体でありながら「平和」「不戦」と言ふのはギャグではないとしたら何なのか)。いのちの党は「生活支援で平和と安心」、社民党は「平和外交と憲法の理念」。いづれも、外国による侵略などあり得ぬといふ立場に立つてゐて、「平和主義守つて国滅ぶ」といふことになりかねない。
右に挙げた政党の談話は、いづれも覇権主義国家が世界に存在しないが如くの所謂「お花畑」談話であり、高市首相の書いたたつた一行に遠く及ばないが、日本維新の会と参政党の談話はそれぞれバランスの取れたものであつた。即ち、維新の会は「平和を求める外交努力と、国民を守る現実的な安全保障の両立」、参政党は「大国の力による現状変更が相次ぐ中、安全保障体制の再構築は急務」とした。
我々国民にとり最重要の憲法の条項は第十三条である。それは「生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利」であり、その権利については、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とある。右の政党談話を読めば分かる通り、多くの政党は思考停止に陥つてをり、実は憲法違反の政策を目指してゐのである。多くの同胞がそのことを理解することを筆者は願つて已まない。<了>(敬称略)(令和八年八月二十四日)

【文献案内】
・松原正『戦争は無くならない』地球社(現在は『松原正全集』第三巻、圭書房)
著者は当時、早稲田大学教授(故人)。政治論ではなく、人間論として戦争を論じた稀有な名著。
・潮匡人『最後の理性――戦争は倫理的行為である』四谷ラウンド
著者は元自衛官(三等空佐で退官)で評論家。書名はオルテガの『大衆の反逆』の一節から取られたものである。「おのれが正しいと信じる道理や正義を守ろうとして手段を使い果たした人間にとって、力は最後の手段であり、人間の本性がそういう力を必要とするのは悲しい事だが、それが道理と正義への最高の敬意であったことは否定出来ない。力は最後の手段、すなわち最後の理性」といふ一節である。『大衆の反逆』はちくま学芸文庫で読める。
・アンドレ・コント=スポンヴィル『ささやかながら徳について』中村他訳、紀伊國屋書店
著者はソルボンヌの哲学教授。原題は「諸々の徳についての小論」であるが、訳書は五百頁を超える。フランスで三十万部を超えるベストセラーとなつた他、世界十九か国でもベストセラーらしい。このやうな書がベストセラーとなる国々が正直羨ましい。本書の中で著者は「正義は四つの基本的な徳(正義、思慮、節制、勇気)のうち、絶対的な価値をもつただ一つのものである」と書いてゐる。















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