蟷螂の斧

第19回 原爆忌の政治的欺瞞

八月は「憂鬱な月」であると何度か書いたことがあり、その際俎上に上げたのは「終戦記念の日」をめぐるマスメディアの報道と、式典における首相たちの式辞が主であつた。

今回は少し論題を変へて、広島と長崎の被爆者追悼の集会を取り上げる。

その前に、式典の名称についての違和感を述べておきたい。八月六日に開催された広島での追悼式典の名称は、NHKのテレビ中継は「平和記念式典」としてゐた。広島市のHPでもさうなつてゐる。これまで気づかずにゐたのだが、「記念」はをかしいのではないか。「記念」とは辞書によれば、「後々の思い出のために残しておくこと」或いは「過去の出来事を思い起こして祝うことで、記憶を新たにすること」であつて、多数の原爆被害者の記憶を忘れずにゐようといふことなら、分からないわけではない。しかし、「平和記念」なのだ。被爆による死没者を追悼するのに「平和記念」はないであらう。開催場所が「平和記念公園」だからなのか。だが、これもをかしい。日本語としては、公園名も含めて「平和祈念」のはうが相応しい。そのゆゑか、翌日の「産経新聞」は「原爆死没者慰霊式・平和祈念式(平和記念式典)」と順序を逆転させて書いてゐた。一方、九日に開催された長崎の式典名は「長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」である。これならば問題なからう。広島市のこの不適切な表現は一体何なのだらうか(尤も、慰霊碑に刻まれた碑文の後半、「過ちは繰返しませぬから」の不適切に比べれば、それほどではないと言へるかも知れないが)。

追悼と記憶を表した象徴的なイラスト
AI生成イメージ(実際の人物・出来事を撮影したものではありません)

呼称の問題はさておくとして、広島の式典において、松井一実市長は「平和宣言」で若い世代に向けてこのやうに言つた。「核兵器廃絶を国際社会の常識にすることは、為政者の核抑止力依存を認めない環境づくりにつながります」と。松井市長が様々なことを勘案しながら書いたであらうこの種の文章に難癖を付けるわけでは決してないが、本質的思考を心掛けようと念ずる筆者には絵空事としか思はれない。

戦後八十一年を経て、「核兵器廃絶」は今なほ「国際社会の常識」とはなつてをらず、そのことを嘆くよりも、なぜさうなのかを考へるべきであらう。何より、「核抑止力依存」は核の使用そのもののことではなく、核兵器使用前の事態ではないのか。使つたら「抑止力」とはもはや言へまい。つまり、核を戦争の「抑止力」として戦略的に使ふことは、ある意味で平和的戦術であり、イギリスやフランスがさうであるやうに、自衛のための戦略としてあり得るであらう。核が「使へない兵器」と言はれる所以である。

一方、「世界の為政者たち」に対しては「廃絶を願う市民社会(?)をいつまで失望させ続けるのですか」と問ひ、「核保有国の為政者の皆さんは、核軍縮に大きな責任を有しているのですから、自ら範を示す必要があることを十分認識されているはずです。(略)私たち市民社会(?)は、為政者の皆さんが被爆地から核兵器廃絶への決意を世界に発信し、そのための政策を実行することを心から待ち望んでいます」と畳みかけた(括弧内の「?」は吉田)。

核軍縮の対話を表した象徴的なイラスト
AI生成イメージ(実際の人物・出来事を撮影したものではありません)

このやうな言葉について、翌日の「産経抄」(「産経」第一面のコラム)は「なぜ名指しでの批判を避けたのか。核武装や核兵器開発で世界を揺さぶるのは中国、ロシア、北朝鮮、イランの為政者だろう」と書いた。全く同感である。右の平和宣言の言葉は徒に波風を立てたくないといふ忖度の言葉といふよりは、相変はらずの政治的言辞、否、政治的に未熟な言辞である。

無論、このやうに呼び掛けるのは自由であるが、中国やロシア他、これらの専制国家にして覇権主義国家においては、為政者にも技術者にも末端の兵士にも、そして一般国民にも、この呼び掛けに応ずる自由はないのである。さうなると、仮に呼び掛けに応ずる為政者が出るとして、それは日本も属する自由主義国の為政者だけに留まるといふことになり、現在、核保有をしてゐる、もしくは保有しようとしてゐる覇権主義の国々だけがほくそ笑むといふ結果をもたらすことになる。だから、「政治的未熟」と言ふのである。

さらにまた、右の言葉に続く言葉は次のやうなものである。「日本政府には、日本国憲法が掲げる崇高な理想を深く自覚し、国際社会において名誉ある地位を占めるための歩みを止めないでいただきたい。とりわけ、各国との分断や対立が生じかねない厳しい安全保障環境にあるからこそ(略)、国際社会の平和と安定に向けて貢献し続けることを表明し、実行していただきたい」。

前半はおよそ日本国憲法の欠陥を全く知らぬ気な冗語であり、真剣に「名誉を占め」たいとする同胞の苦衷は考慮の外である。それに、後半に言ふ「表明」なら、これまでいくらでもして来たではないか。誤解しては困る。聴く耳を持たないのは覇権主義的国家の方である。

高市早苗首相も広島会場での式辞においては、「非核三原則」の堅持を謳つたが、「核兵器のない世界の実現に向けた努力」程度に留めてゐた。けれども、長崎会場では、なぜか、この「努力」を「現実的かつ実践的な取り組みを推進」といふふうに、一歩踏み込んだ言葉を使つた。しかし、そもそも「非核三原則」とは、昭和四十六年の衆議院決議や昭和五十一年の衆議院外務委員会の決議を見れば分かるやうに、「べきである」「努力するべき」といふ努力目標でしかないのであつて、これを不磨大典の如く神棚に祀るのがそもそもの間違ひであるし、何より「持ち込ませず」の神話はとつくに崩れてゐる。

ともあれ、核兵器だの原爆だのの話になると、我が国の選良からマスメディア、そして一般国民に至るまで思考停止の症状を呈してしまふのが通例である。

福田恆存はその歴史的名論と言ふべき「現代の悪魔」において、原水爆を「大悪魔」と見做し、その他の通常爆弾や局地紛争を「中悪魔」「小悪魔」と思ひなし、「大悪魔」廃絶の運動がそれだけで最高の美徳となり、中小の悪魔による犠牲を隠蔽してしまふといふ、言はば「価値に対する無感覚」と「価値を数量で割り切る」のを厳しく指弾した。

生命の価値を考えるを表した象徴的なイラスト
AI生成イメージ(実際の人物・出来事を撮影したものではありません)

筆者から見ると、原爆忌は毎年このやうな「価値に対する無感覚」「価値を数量で割り切る」愚を単純再生産、否、式典で小学生に「平和への誓い」を発表させたり、学校教育に拡散させたりすることにより、拡大再生産を行つてゐるのである。

引き続き、「現代の悪魔」から、「蟷螂の斧」第五回「国を挙げての偽善」(昨年八月)に引用した箇所とは異なるところを引く。「〔原水爆による〕全人類の死が〔通常爆弾による〕五人の死より『悪魔的』に見えるのは、(略)全人類の死や世界戦争には自分が含まれてをり、五人の死や局地戦争なら自分が助かる余地が大であるといふ利己心の働きでしかないのではないか」(『全集』第五巻、文藝春秋)。

ここでの福田は「利己心」を悪しきものとして描いてゐるのだが、筆者がこれを引用したのは、自分にこの種の「利己心」がないと言ふためではなく、むしろ、利己心に目を閉ざさず、世界の現実をもつと真剣に見つめ、正しく「怖れる」ことも大事だと思ふからである(右の福田論文が書かれたのは昭和三十六年であり、中共が核兵器を持つのは三年後である)。

イスラエル・アメリカ対イランの攻防に目を転ずれば、イスラエルはミサイルが枯渇し始めてをり、そのやうな窮状を打開するために「イスラエルが核兵器使用に踏み切るかもしれない」との元陸相補の矢野義昭の分析もある(『アイデンティティ』第一四一号、令和八年八月)。イランはミサイルを四万五千発保有し、中共は一日に千発のミサイルを生産してゐるのが現状なのである。

このやうな世界の動きに対して広島・長崎流の「平和の祈念」がどのやうな力を持つか、主催者や政府関係者は一度、じつくりと考へるべきではないか。開催費用も税金から出てゐるのだから、無駄遣ひは許されぬ。泉下に眠る方々は本当に「世界平和」を祈念されてゐるのだらうか。むしろ、先づ第一に、同胞が、自分たちの子孫が、同じ目に遭はないやうにと念じてをられるのではないか。筆者ならさう念ずるであらう。ひよつとしたら、仇をとつてくれと願ふかも知れないが、想像を縦(ほしいまま)にするのはここまでで止めておく。

長崎の鈴木史朗市長は二年前の式典に駐日イスラエル大使を招待しなかつた一方で、パレスチナ自治政府代表は招待したといふ政治的「前科」を持つ市長であり、今回もまた台湾代表団を「外交団エリア」の外に配置するといふ仕打ちを敢へてした(その結果、代表団は欠席)。その後の報道では、中共の指示だつた由であるから、実に政治的なセレモニーとなり果ててゐるのだ。

しかし、今回、鈴木市長は一つだけいいことを言つた。「長崎を最後の被爆地に」といふのがそれである。だが、これは日本を念頭に置いたものでなければならない。これを「世界平和」だのと誤魔化すのは「利己心」の隠蔽にほかならない。即ち、自己欺瞞である。「我々の美徳はたいていの場合、偽装した悪徳に過ぎない」と警句家ラ・ロシュフコーが書いてゐる(『箴言集』岩波文庫他)。

未来に残す平和を表した象徴的なイラスト
AI生成イメージ(実際の人物・出来事を撮影したものではありません)

ともあれ、政府は二つの追悼式典が政治的な思惑に左右されるのを防ぎ、同時に、核武装のタブー視を止めるべき時が来てゐることを国民に確(しか)と知らせるべきなのである。<了>

(敬称略)(令和八年八月十六日)

吉田好克

吉田好克について 吉田好克は、神道・宗教・日本思想・歴史・政治・社会について、長年にわたり研究・教育・執筆を続ける論者です。 その関心の中心にあるのは、個々の時事問題そのものではありません。 日本とは何か。 日本人はいかに生きるべきか。 歴史や伝統を、現代にどう受け継いでいくのか。 そうした根源的な問いを、宗教、思想、歴史、社会のさまざまな角度から考え続けています。 論考では、福田恆存、江藤淳をはじめとする先人の思想や、国内外の文献を幅広く参照しながら、現代社会で当然のように語られている価値観や言説を改めて問い直します。 その姿勢は、特定のイデオロギーから現実を説明するのではなく、歴史、伝統、人間の営みという現実から、思想や制度を見つめ直すことにあります。 連続論考「蟷螂の斧」では、外国人労働者問題、戦後日本とキリスト教、原爆忌と平和思想、安全保障、靖国神社、保守思想、政治家論など、現代日本が直面する問題を幅広く取り上げています。 「蟷螂の斧」という名の通り、たとえ小さな力であっても、疑問を抱いた問題には自らの言葉で向き合う。 その文章には一貫して、日本の歴史と文化を次代へどうつなぐのかという問題意識があります。 本サイト「吉田好克.jp」では、「蟷螂の斧」をはじめ、これまでに執筆された論文、評論、寄稿、講義資料などを整理し、吉田好克の知的成果をデジタルアーカイブとして公開していきます。

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