蟷螂の斧

第25回 フランスの暴動が暴いたこと

九月末以来続くフランスでの暴動は、他の欧州諸国にも飛び火して、なかなか収まる気配が無い。

最初は教員不足や教育行政の欠陥に腹を立てた当の教員や高校生たちの決して過激ではないデモ行進だつたのだが、徐々に暴徒に乗つ取られてしまつた格好だ。ニュース映像を見れば、略奪行為を働く者たちは学生には見えないし、行進中に振られてゐる様々な旗やプラカードを見ても、トランスジェンダーやアンティファの団体、パレスチナ解放を目指す団体、或いは極左政党である「不服従のフランス(LFI)」(La France Insoumise) の党員などが混在してをり、生徒を含む学校関係者たちはむしろ少数のやうに見える。

ただ、フランスは伝統的に「普遍主義」(民族・人種・宗教に拘はらず、法の下での市民の平等を保障するといふ考へ方)を奉じて来たので、「不平等」についての感受性が我々日本人とは大きく異なることには注意したい。だからであらう、デモやストライキはフランスでは珍しいことではない。政府や当局に自分たちの主張を認めさせるためのそれらの手段は、一般的に「公認」されてゐるとも言へる。デモやストライキで迷惑を被つても、自分にも与へられてゐる正当な権利であるといふ考へが行き渡つてゐるやうに思へるのである。

留学中の経験だが、あるオペラの鑑賞券を数ヵ月前に入手し、当日オペラ座に赴くと、「本日、出演者たちの組合によるストライキあり。入場券の返金は……」云々といふ素気ない告知が掲示されてゐた。楽しみにしてゐただけに、一方で「事前予告も無しか」と憤然とし、一方で「これがあの有名なフランスのストライキか」と悄然としつつ、他の客たちの行動を観察してゐると、皆、仕方無いといふふうに肩をすくめることはあつても、大きな声で非を唱へるやうな人は見かけなかつた。我が国と異なり、「明日は我が身」「お互ひ様」といふ心性が支配的なのだらうと想像したのだつたが、どうだらうか。

さて、この穏健なデモから暴動に推移してしまつた原因は、様々な組織(一説にはその数五十前後の組織)が加担してゐるぐらゐだから、当然複合的なものであり、一義的に決めつけることはできないはずだ。然るに、十月二十五日朝の悪名高き「サンデーモーニング」(ネットでは「サイテーモーニング」「サヨクデモーニング」などと揶揄されてゐる)では、この一連の暴動について、司会の膳場貴子が、まるで日本でも暴動が起きて欲しいと思つてゐるかのやうな口調で、ありもしないのに「日本とも共通点がありますね」と寺島実郎に意見を求め、寺島がそんな必要はないのに「日本に引き付けて考へる必要がある」と例によつて重々しく応じ、債務残高だの財政規律だのに触れながら、「日本も経済をしつかりさせる議論を始めなければならない」と結んだのである。あの暴動を見て、我が国の経済問題に話を関連付けるのは、「風が吹けば桶屋が……」の類だ。

TBSは(他局も同様だが)移民政策に賛成で、批判をしたくないのであらう。右の遣り取りは、政府の「積極財政」を批判し、つまりは高市首相を貶めようとする、出来の悪い漫才のやうなものである。二人とも本気で右のやうに考へてゐるのなら、相当にポンコツだ。それとも、TBSの意向に唯々諾々と従つてゐるのだとしたら、職業人としての誇りと責任はどうしたと問ひたい(尤も、TBS専属の膳場には無理な注文であらう)。

今回の暴動には経済不況、貧困層と富裕層の格差、人種差別など、多様な問題が起因してゐることは間違ひなく、そしてそれらの根本には所謂「移民・難民」問題が大きく横たはつてゐるのではないか。移民の多い地区に暴動が多いことや、リモージュの市庁舎放火事件でも犯人はアンティファの活動家だつたことを見ればそのやうに想像できる。この犯人が移民かどうかは不明だが、アンティファの活動目標の一つは移民制限反対・人種差別反対である。

ところで、私がしばしば参照して引用するソルボンヌの哲学教授アンドレ・コント=スポンヴィル(一九五二年生まれ)がLe Goût de vivre (Livre de Poche,2012)といふコラム集を出してゐて(『人生の流儀』とでも訳せようか。日本語版未刊)、その中でフランスにおける移民問題を論じてゐる(我が国の移民問題についての筆者の考へは、本稿「第十五回――後悔必至の外国人労働者受け入れ」と「鱓の歯ぎしり」に収めた「自国の文化と秩序を保守せよ」を参照されたい)。

彼は外国人を受け入れて同化することを無制限に出来るかと問うて、「個々の文化は他の文化との交換により自らを豊かにできる。しかし、その時、何らかの抵抗もしないと、本来自らが持つてゐる交換するべきものを急速に失つてしまふ。交渉の欠如も、過度の交渉も、共に危険である」といふクロード・レヴィ=ストロースの警告を引用してゐる(この文化人類学の巨人は、同様のことを日本での講演でも語つてゐるので彼の持論であり信念であらう(『レヴィ=ストロース講義』第三講、川田・渡辺訳、平凡社)。そして、この言に倣つたのか、コント=スポンヴィルは「移民の制限は恥づかしいことでもなければ、社会的欠陥でもない。それは、如何なる国民にとつても、自身の命運を決めることであるから」とするのである。しかし、同時に、このやうな感情に流され過ぎると、ル・ペン〔ジャン=マリーのこと。「国民連合」の前党首マリーヌ・ル・ペンの父親〕を利することになると警鐘を鳴らしてゐる。つまり、ル・ペンのナショナリズムのことは批判的に見てゐる。

ル・ペンは「国民戦線」を率いた「極右」の代名詞的存在だつたが、実娘のマリーヌが所謂「脱悪魔化」(dédiabolisation) 戦略を取り、父親を除名し、その三年後の二〇一八年には「国民連合」に党名変更。以後、「狭量・攻撃的」といふ印象が弱まり、その分、国民の理解も広く進むやうになつた(二年前の欧州議会選挙ではフランスの第一党となり、国民議会選挙では全五七七議席中、一四二議席を占めるに至つた。若き三代目党首のジョルダン・バルデラの人気も上々である)。

コント=スポンヴィルは、「如何なる国も永遠ではないし、如何なる文化も永遠ではない。そのことを我々に思ひ出させるものは、おそらく、ナショナリズム〔国粋主義〕のやうな敵意と排除ではなく、記憶と忠誠からなるパトリオティズム〔祖国愛〕なのである」と書いてゐる。少し分かりにくいが、「記憶」とは他人事(ひとごと)ではない自国の歴史への、覚えてゐればこその自負や哀惜の念、「忠誠」は自国への赤誠の念であらう。

現在の「国民連合」も「敵意と排除」ではなく、「フランスの法律や価値観を守り、社会に溶け込む移民は受け入れるが、不法移民やフランス社会と敵対する者は厳しく管理・追放する」といふ、筆者に言はせれば、正しい方針を打ち出してゐるのである(内藤陽介『世界の右翼』、ワニブックス)。

コント=スポンヴィルのコラムは平成五年(一九九三)に書かれたものであることを思へば、言はば予言的・教訓的なものだつたのではあるまいか。そして、コラムの最後に、「フランスで生きることは人権に属するものではなく、レイシスト(人種差別主義者)であることも市民権に属するものではない」と結語するのである。これも少し分かりにくいが、彼の言ひたいことは、人権といふものがあるからフランスで生きて良いといふものではなく、市民権があるからレイシストであつて良いといふものではない、といふことであらう。二言目には「人権」を持ち出す人権派に読ませたい言葉である。

ここで、今回のテーマに戻れば、フランスの暴動が暴いたものとは、一、「文化大国」といふ美称を有するフランスが公立学校の教育において多々問題を抱へてゐること(教師不足による授業不成立や、壊れた洗面所が何年も放置されてゐることなど)。二、共産革命思考の諸団体がフランスには如何に多いかといふこと(さう言へば、「共産党」が公党として存在できてゐるのは日仏のみである)。三、日本のオールドメディアが、移民・難民問題について、「報道しない自由」を決め込んでゐること、などである。

我々日本人にとつて最重要なのは、勿論、三である。高市政権の閣僚たちの思考も移民拡大ではなく、徐々に制限の方に進みつつあると思はれる。「文化共生」「人権」などといふ美辞麗句に惑はされてはならない。左翼が何を言はうと、現実的、実利的に「制限」の方針を立てる必要性については、もはや議論の必要は無いと思ふ。

最後にもう一度、コント=スポンヴィルの先ほどの言葉を引く。「移民の制限は恥づかしいことでもなければ、社会的欠陥でもない。それは、如何なる国民にとつても、自身の命運を決めることであるから」。我々もこの言葉を拳々服膺するべきである。〈了〉(敬称略)(令和八年十一月四日)

吉田好克

吉田好克について 吉田好克は、神道・宗教・日本思想・歴史・政治・社会について、長年にわたり研究・教育・執筆を続ける論者です。 その関心の中心にあるのは、個々の時事問題そのものではありません。 日本とは何か。 日本人はいかに生きるべきか。 歴史や伝統を、現代にどう受け継いでいくのか。 そうした根源的な問いを、宗教、思想、歴史、社会のさまざまな角度から考え続けています。 論考では、福田恆存、江藤淳をはじめとする先人の思想や、国内外の文献を幅広く参照しながら、現代社会で当然のように語られている価値観や言説を改めて問い直します。 その姿勢は、特定のイデオロギーから現実を説明するのではなく、歴史、伝統、人間の営みという現実から、思想や制度を見つめ直すことにあります。 連続論考「蟷螂の斧」では、外国人労働者問題、戦後日本とキリスト教、原爆忌と平和思想、安全保障、靖国神社、保守思想、政治家論など、現代日本が直面する問題を幅広く取り上げています。 「蟷螂の斧」という名の通り、たとえ小さな力であっても、疑問を抱いた問題には自らの言葉で向き合う。 その文章には一貫して、日本の歴史と文化を次代へどうつなぐのかという問題意識があります。 本サイト「吉田好克.jp」では、「蟷螂の斧」をはじめ、これまでに執筆された論文、評論、寄稿、講義資料などを整理し、吉田好克の知的成果をデジタルアーカイブとして公開していきます。

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