読者は小島尚貴といふ人を知つてゐるだらうか。昭和五十年(一九七五)福岡生まれ。西南学院大学経済学部中退。主に貿易業に長年携はり、現在は各種アドバイザーを兼任してゐる実業家で、「輸出・国際技術移転」を本業とするJ-Tech Transfer and Tradingの設立者にして代表である。この人に『脱コスパ病~さらば、自損型輸入~』(令和五年、育鵬社)といふ著作がある。さらにその二年前に『コスパ病~貿易の現場から見えて来た「無視されてきた事実」~』(アマゾン)といふ著作もあり、前者は後者の続編とでも言ふべきものである。
私がこの続編を読んでみようと思つたのは、恵投を受けてゐる公益財団法人「国民文化研究会」の月刊会報紙「国民同胞」十二月十日号で、熊本県八代市における藺草(いぐさ)・畳表の「自損型輸入」(後で説明)行政の闇を暴く氏の文章を読み感銘を受け、さらに「コスパ病」といふ言葉で思ひ当たることがあつたからだ。つまり、商品のコストパフォーマンス(=廉価)を主に考へて購入することを「病」に例へたのだらうと察しがついたのだつた。分かりやすい例を挙げれば、百円均一ショップでの買ひ物のことで、そこで売られてゐるのはほとんどがメイド・イン・チャイナの商品であるのは周知のことである。
もう二十年以上前にならうか。どこで読んだのかは忘れたが、現代日本で流通してゐる胡麻の九十九%がチャイナ製であり、近いうちに日本での胡麻生産の技術が途切れてしまふといふ危惧が書かれてゐて、少し大袈裟に言へば、私は衝撃を受けた。その伝で行けば、我々の生活物資の殆どがチャイナ製となる日が来るのではないかといふ思ひであつた。
そして現在。我が国は経済不振が三十年あまり続いてゐると言はれてゐる。その間に、GDPがチャイナに追ひ越された。私は経済関連については不勉強の輩であり全く疎いのだが、生活者としての実感は、衣類をはじめ、スーパーで売られてゐる、特に加工品の食物などはメイド・イン・チャイナ以外を選ぶことはかなり難しい状況に立ち入つてゐるといふものだ(ここ一、二年は、衣類のタッグにチャイナ以外の文字を見ることが多くなつたやうに思はれるけれども)。
このやうな現状を見る限り、二十年前に受けた衝撃は杞憂ではなかつたと思ふやうになつた。そして、このやうな現状となつた理由を考へてみたが、経済には不案内ゆゑ、彼(か)の国は人口が多く、賃金が我が国より安く済むので大企業がビジネスチャンスとばかりに彼の地に相次いで進出してゐる結果であらうと思つてゐた。もちろん、そのやうな観察は全くの間違ひではない。そのやうな一面も確かにあるだらう。しかし、この本を読むと、もつと複雑な問題が内在してゐることが分かる。そして、それこそは我が国の経済的不振を引き起こしてゐる大きな原因の一つなのである。
著者は「輸入」には三つの種類があると言ふ。一つ目は「通常輸入」で、「ある国に以前から流通している品目を日本に輸入して販売する行為」のことである。二つ目は「開発輸入」と言ひ、「日本では生産、製造できない品目を日本の技術供与や資金提供によって輸出品目に育てあげ、その取引を通じて両国の問題解決を図る」といふものである。例へば、天然ガス田を持ちながら開発資金と掘削技術を持たない国に対して、その資金と技術を持つ日本が支援して必要とする天然ガスを輸入する、といつたものである。
そして、三つ目が著者が名付けるところの、サブタイトルにもなつてゐる「自損型輸入」である。その特徴についての著者の説明は以下の通りである。
一、「輸出国で流通していない品目」が、日本だけに向けて輸入されている。
二、輸入品目には、「輸出国の文化や歴史を反映した要素」がない。
三、「日本各地で生産、製造してきた衣食住分野の品目」ばかりが輸入されている。
四、輸入品目の製造工程と流通過程には、「途上国支援」と呼べる要素がない。
五、輸入品目の国内荷揚げ価格は、通常輸入、開発輸入の品目よりはるかに低い。
六、輸入品目の外見や形状は、日本で生産、製造、販売されてきた品目と酷似している。
七、輸入品目は、その低価格により、国内の多くの産地と業界とを疲弊させてきた。
どうだらうか。自分の家の中や庭などを見回すと、以上の各項に該当する品目が最低でも一つや二つ、多ければ十や二十の品が見つかるのではなからうか。無論、諸々の事情、即ち、どのやうな商業施設が近隣にあるのかといふ問題、何より、懐具合も関係するので、私とてそれらを闇雲に否定するわけではない。だが、このやうな我々の消費活動が結果的に、「日本人消費者による対中国献金運動」となり、「日本人による日本製品不買運動」となつてゐる所以を著者は具体例を挙げて説明する。その具体例については本書に譲るが、私が最も感激したのは次のやうな個所である。少し長いが引用する。
「自国に背を向け、産地や業界でともに切磋琢磨してきた仲間を苦しめ、自損型輸入で利益を追求しても良心が痛まず、自社、自分をそうした行動に駆り立てるコスパ病への感染を自覚できない根本的な原因は、一体、どこにあるのか」
長年の実務経験と思索、勉強を経て私が到達したのは、「その病原は、私たち日本人の同胞意識の喪失にある」という結論です(傍点吉田)。同胞意識とは、閉鎖的な島国根性ではなく、排他的なナショナリズムでもなく、懐古的なセンチメンタリズムでもない、自分が生まれ育った国や町の産物、偉人、歴史に誇りと愛情を持ち、それを生み出した過去に感謝し、それに親しめる現在を楽しみ、それを未来に残して伝えようという、温かい情緒と責任感に支えられた一体感だと言い換えてもよいでしょう。
ですから、同胞意識を持つ消費者は故郷や祖国の産物に対して、単なる消費者以上の「愛用者」になれますし、愛用者が生まれる経済は豊かで優しく、強いのものです。
この後、著者はエスプレッソが大好きなイタリア人のカフェでの生活様式に触れ、米国資本のスターバックスがイタリアに押し寄せても、彼らは慌てず騒がず、「ようこそ、スターバックスさん。イタリアで良いお客に鍛えてもらって、コーヒーのクオリティを高めて下さいね」と言ひながら、自分たちは馴染みの個人経営のカフェに通ふといふ「ライフスタイル」を続けてゐると言ふ。さうした彼らの言はば「自文化主義」的態度が「イタリア版の同胞意識に支えられた〔同胞同士の〕結びつき」であると称賛してゐる。
私もフランス留学の経験があるので、この話は本当に良く分かる。私の留学時には既に我が国は長らく世界二位の経済大国であつたが、フランスは四位から五位ぐらゐだつたと思ふ。けれども、フランス人の生活には言ふに言はれぬ、そこはかとない生活の豊かさゆとりとを感じたものだ。当時の新聞だつたと思ふけれど、さるアンケートに「他国の料理(方法)に学ぶものはない」と答えたフランス人が確か七十%を超えてゐて驚いたことを覚えてゐる。勿論、ここにフランス人の「進取の精神」の欠如を指摘することは可能かも知れないが、自文化に対する矜持と自信と愛着を国民が持ち続けてゐるゆゑに、「文化大国フランス」の栄誉を保ち続けてゐられるのではないか。
いみじくも世界的碩学、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースがかう教へてゐる。「独自性を持ち、また互いを豊かにする一定の隔たりを保つには、どんな文化も自らに対する忠誠を失ってはなりません。そのためには、自分と異なった価値観に対してある程度目をつぶり、こうした価値観の全部あるいは一部への感受性に鈍感であることも必要なのです」と(『レイヴィ=ストロース講義 現代世界と人類学』川田・渡辺訳、平凡社ライブラリー)。
これを別の角度から福田恆存も論じてゐる。「善かれ悪しかれ、自己を頑強に肯定し、これを守りぬくといふところにしか、文化は存在しない」「己を肯定し、自己を守るための文化がないところに、私たちは生きる楽しみを享受することはできない」と(「文化とはなにか」『全集』第三巻)。
さうなのだ。歴史がその民族・国民の履歴書であるとするなら、文化はその民族・国民の「生き方」(ライフスタイル)の総称であり、何を喜び何を幸福として来たかの証明書なのである。そして、その喜び、幸福についての「自己理解」があつて初めて「他者理解」といふものもあるのだと思ふ。
経済不振を嘆く前に、我々は今一度、自らの文化や歴史が生み出した「物」の愛用者となることの重要性を思ふべきである。さうしたことにより「経済は豊かで優しく、強いものになる」のではなからうか。
以上のやうに、本書は「脱コスパ病」のためのハウツー本ではなく、非常に深い文化論である。本書を推奨する所以である。〈了〉(敬称略)(令和八年一月十九日)
【追記】
高市早苗首相が自民党総裁選の期間中に、クリスチャン・ディオールのバッグを所持してゐたことで、「庶民感覚とかけ離れてゐる」といふやうな批判が一部で起きたさうである。「庶民感覚」なんぞはどうでも良いが、昨年、めでたく総理となり、初めて官邸に足を踏み入れた際には、皇室御用達のメーカーでもある濱野皮革工藝の黒のトートバッグ(約十三万円)を持つてゐた。これが高市人気を反映して評判を呼び、製造元には通常の八十倍の注文が殺到したさうだ(『Hanada』本年二月号による)。
ディオールをはじめ海外の有名ブランドのバッグなど触れたこともない筆者だから、品質の良さなどを論ふことはできないが、右の濱野皮革工藝や他の日本の老舗が作る商品が海外のブランドに比較にならないほど劣つてゐるとは考へにくい(ファッション性については人それぞれ嗜好があるだらうが)。高市人気が理由であつたとは言へ、このやうな機会を通じて改めて日本の製品と出会ひ、その価値を愛する消費者が増へることを願つて止まない。















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