先月四日、荒井首相補佐官が「性的少数者」に対する差別発言を行つたとの理由で更迭されたが、果たしてあれが「差別」であらうか。LGBTを隔離せよとか選挙権を与へるなとか主張したのでもなく、また、当事者を目の前にして「気持ち悪い」などと罵つたのでもなく、オフレコ取材といふ特殊な空間で内心を吐露したに過ぎない。紳士協定を勝手に反故にした「毎日」の記者は罪深いが、これを機に、要らぬ法案の成立に俄かに動き出した岸田首相は更に罪深い。
小欄は本紙一昨年の九月号で、「理解増進法」の制定を推進する稲田朋美を批判したが、その際には知らなかつた情報がある。これまで、性的指向や性自認は生まれつきであり、自らの意志とは別であるとされて来たのだが、最近の諸家の研究によつて、「同性愛は自身の意志による選択の結果であり、強い依存性によつて形成される性的行動様式である」といふことが判明してゐるのだ(吉源平他『同性愛は生まれつきか?』22世紀アート)。だから、性的指向が加齢と共に変化したり、性転換後に後悔したりの例も無数にあるやうだ。
無論、小欄は性的指向の自由はあつて良いと思ふが、敢へて「理解」せずとも、さういふ相手との深くはなくとも普通の人間関係は結べると思ふから、LGBTのための特別な立法措置の必要は無いと考へる。憲法の保障する「基本的人権」だけで十分だ。
人間の理解や同情の裏には差別や軽蔑の感情が隠れてゐることがしばしばある。上野千鶴子も辻元清美もかつては同性愛者を嫌悪してゐたのだが、今では「弱者」に寄り添ふ振りをしてゐる(松浦大悟『LGBTの不都合な真実』秀和システム)。まさに偽善者と言ふべきで、偽善者とは、本当は自分でも重んじてゐないものを称揚し、代はりに何かしらの利益を得る者のことだ。
そして現在、この種の「偽善者」たちが、国民の分断といふ政治的意図を隠蔽しながら、同性愛や性自認などに法的な特権を与へようとしてゐる。特に後者が認められれば、これまでの男女別「文化」をすべて破壊してしまふことになる。また、野党案にあるやうに、差別の対象が人が持つ「観念」にまで及ぶとしたら狂気の沙汰であり、憲法にも違反しよう。同性愛を認めないイスラム教徒やカトリック教徒が棄教を迫られることにもなりかねない。
昨年成立した「困難女性支援法」も同様で、偽善者揃ひの我が国の国会だけのことはある。衆院で全会一致、参院では二名を除く賛成多数で可決された。困難を抱へる男も大勢ゐるのだ。「男女平等」はどこに行つたのか。
偽善は無知で浅薄な人間が罹患しやすい病である。(令和五年三月号)














