「LBGT理解促進法案」の推進派は、「性的弱者救済」を口実に、社会の分断や伝統の破壊を目論んでゐると思はれる。
抑々LGBTへの差別なんぞ我が国に存在するのか。同性愛が刑罰の対象となる国は七十ヵ国以上あり、イスラム圏には今なほ極刑を課す国が九つもある。そんな国々と我が国では文化事情が全く異なり、数多くのテレビ番組にその種のタレントたちが意気軒昂に出演してゐるではないか。
勿論、性的指向の自由はあつて良い。が、その指向ゆゑに社会的差別や不利益があるのなら、当該者が個別に対処すれば良いのではないか。LGBとTを一纏めにして包括的な法律なんぞ作る必要はない。自身Gである松浦大悟によると、差別禁止法が出来れば同性愛者は「被差別民」だと公認されることになり、それには堪へられないといふ意見もあるさうだ(「産経」八月十七日付)。
だが、推進者の稲田朋美は言ふ。「差別禁止ではなく、理解が進むことで差別のない社会を作るのがこの法律の目的」であり、それゆゑ「差別解消ではなく、理解増進法」だと(小川榮太郎との対談『Hanada』九月号)。
しかし、与野党合意案にある「差別は許されないという認識の下」は、いづれ必ず「差別禁止」の意であると拡大解釈される。「性自認」といふ言葉も同様であり、現に日本学術会議の分科会は、これまで必要条件だつた性転換手術を不要とせよと主張してゐる。これでは「言つた者勝ち」である。稲田は小川の「訴訟濫発の危惧」を否定するが、既に海外では数多くの訴訟事案が起きてゐる。
それに、「理解増進法案」と言ふが、彼らの何を理解せよと言ふのか。特定の性愛を理解せよといふことか。そんなことが簡単にできる訳がない。が、理解できずとも普通の人間関係を築くことはできるはずだ。
推進派は「理解」といふ言葉を安易に使ひ過ぎる。ニーチェが言ふやうに「人は誰でも自分自身を体験するのみ」(『ツァラトゥストラ』Ⅲ・1)であり、性的指向など、追体験が出来ない世界を理解するのは極めて困難である。そのうちに、小学生に「性教育」の名の下で、人形を使ひながら同性愛を教へる教員も登場するであらう。
仮に自分の息子がGだといふことになれば、小欄は悲しむだらうと思ふ。そしてそれを変へることが出来なければ、その段階で「理解」しようとはするであらう。息子なのだから。しかし、他人のその種の事情を特定の方向性で「理解」する義理はない。理解を要求する権利を保障する社会は、その理解を拒む、もしくは理解しようとしてもできない人間の権利をも保障する社会でなければならない。(令和三年九月号)














