蟷螂の斧

第11回 「甘やかされた子供たち」――立民、公明、マスメディア

一月二十七日に公示され、第五十一回衆議院議員総選挙が始まつた。私は本稿第七回、第八回に書いたやうに、高市総理は優れてゐる、応援しようといふ立場である。自民党と維新で何とか過半数を獲得し、長期政権に結び付けて欲しいと心底より願つてゐる。野田佳彦や斎藤鉄夫に国政を任せられる理由は皆無である。

一方で、この選挙を前に合併して中道改革連合といふ似非政党を作つた公明党と立憲民主党の動きを見てゐると、怒りと共に日本国民として羞恥を覚える。自民党との連立を解消した結果、自力での議席維持が難しくなつた公明。マスメディアに掩護射撃をしてもらひながらも支持率が全く伸びず、世代によつては一%前後といふ世論調査に衝撃を受けた立民。つい先日まで、原発や辺野古の問題で対立し、互ひに貶し合つてゐたこの二つの政党が選挙のための互助会を結成したわけだ。いくら選挙のためとは言つても、人間ここまで矜持を捨てて破廉恥になれるのか。悪い意味で「人間性」といふものの認識を私は新たにしたのだが、立民の動きについては「既視感」を覚えた。

それは八年半前、平成二十九年秋に行はれた衆議院選挙である。当時の情勢から、もはや民進党では選挙に勝てないと考へた前原誠司代表(当時)以下の面々は、希望の党に合流すれば小池百合子都知事の人気に肖ることができると読んだ。だから、九月末の両議院総会において満場一致で希望の党に入る事を決めたのだ。しかし、小池が「安保法案」と「改憲」と「外国人参政権付与に反対」の条件を呑まなければ「排除」すると言ひ、民進党出身者たちは周章狼狽したのだが、私はこのこと自体に驚いた。別の政党に合流するのに、相手の「政策」について何も調べてをらず、自分たちのそれまでの主張などいつでも捨てることのできる紙屑のやうなものだつたことが判明したからである。

さうかうするうちに、十月に入つてすぐに枝野幸男が立憲民主党を結成し、結果的にそれなりの議席を獲得したのだが、彼らも右の両議院総会では希望の党への合流を画策してゐたのだし、それが無理と分かつて急ごしらへをしただけのことだから、全く自慢にはならない。

それにまた、立憲民主党といふ党名は、立憲主義と民主主義を合成した造語である。前者は護憲派学者やリベラルな政党人たちによつて「国家権力を監視し縛るもの」といふ意味づけがしばしばなされるが、本来はそんな意味づけとは無縁の言葉だ。拙著(『言問ふ葦――私はなぜ反「左翼」なのか』高木書房)にも書いたことだが、「立憲主義」は「憲法主義」とも訳せる語であり、要するに「憲法中心主義」といふことでしかないのである。専門の辞典にも「憲法に基づいて政治を行うという原理」と端的に書かれてゐる(『法律学小辞典(第三版)』有斐閣)。さらに、この辞典のもう少し先を読むと、「日本の立憲主義」といふ項目があり、そこには「現在では、民主主義・議会主義が明確に規定されているのであるから、この概念の果たす役割は少ないといってよかろう」とある。思はず笑つてしまふではないか。

つまり、この党の連中は出発点からして無為無策で、「政党」と自称する資格なんぞ無く、ただただ国会議員といふ地位に恋々としてゐるだけの俗人の集まりだつたといふことだ。だからこそ、今回の醜悪極まる野合を恬として恥ぢることがないのである。そして、公明党の術中に嵌り、全国の比例代表は総てのブロックにおいて、旧公明側の候補者が上位を独占するといふことになつた。これで、旧立民側は小選挙区で落選しても比例で復活当選するといふ目はほぼ無くなつたわけである。自業自得と言へるが、それにしても驚くほど間抜けな話である。

そして、公示日には、野田佳彦について、統一教会と密接な関係にある勝共連合(注参照)が、かつて「佳勝会」(佳彦の佳と勝共連合の勝を配した後援会名)まで発足してゐたことが、インターネット番組「デイリーWiLL」で報じられた。無論、どんな団体からでも――それが反社でない限り――政治家が支援されることに問題はないのだが、野田はこれまで自民党と旧統一教会との関係を事あるごとに論難して来たのであつて、これほどのイカサマ師は滅多にゐるものではない。野田は「記憶にない」と例によつてお惚けを決め込んでゐるが、アニメ「巨人の星」の主題歌で応援の替へ歌まで作つて貰つてゐたさうだから、完全に嘘である。これで野田と立民の命脈は尽きたと思ひたいのは私だけではないだらう。

ところがマスメディアはこれほど大きな醜聞を、「旧統一教会の友好団体との会合に参加していた」とベタ記事で伝へたきりである(この件を最初に伝へた「産経」も同様)。そして、YouTube番組の「デイリーWiLL」が公開した肝心な会合の写真をいづれの新聞も掲載しない。何故か。写真を公開すれば、そこには「佳勝会発会式」と書かれた横断幕の前で野田が挨拶してゐる姿が写つてゐて、単に会合にゲストとして呼ばれた程度の話ではないことが明るみに出てしまふからである。一月三十一日現在、SNSでは多くの番組がこれを取り上げてゐるが、地上波のテレビ・メディアが報じた様子はない。(注―勝共連合とは、国際勝共連合の通称。旧統一教会を母体とする反共主義の政治団体であり、両者とも創設者は文鮮明。【追記】参照)

テレビ・メディアのダブルスタンダードにはもはや驚かないが、高市早苗が総理に就任してからといふもの、各局は高市についての悪宣伝に血道を上げてゐる。特に衆議院解散後は、「解散に大義がない」とか「今、なぜ解散か」とか、かうした場合によく使はれる紋切型を連発してゐる。「今、なぜ」といふのは決定的な批判を繰り出せない時に使ふ三流ジャーナリストの得意芸であつて、毎日新聞政治部長の佐藤千矢子はTBSの「ひるおび」で、「雪の多い時期に、ポスター用の掲示板を建てる作業も大変」などと子供染みた批判をしてゐたが、かういふ連中は、真夏であれば「酷暑の時期に」とか、連休中であれば「せつかくの休日に」とか言ふに違ひないのである。それに、仮にもジャーナリストであるならば、あの高額の費用がかかるポスター用掲示板が今時必要なのかを訴へたらどうか。私自身は足を止めて見たことなど一度もないし、その前に立つてじつくりと見てゐる人の姿もほとんど見たことがない(徒歩移動の多い都会部では別かも知れないが)。

公明は、この度の結果から見れば立民よりも狡知に長けてゐたと言へるが、斎藤鉄夫は自民党との連立解消を発表する四日前に、国会内で中国の呉江浩駐日大使と面会してゐた。しかも、今年に入つてからだけでも、少なくとも五回以上、中国大使や共産党幹部と接触してゐるさうだ。媚中、親中の公明党代表としてはふだんからその程度のことはしてゐる可能性があるが、ネット上では「中国の意向を受けた連立解消ではないか」といふ疑念が持ち上がつてをり、それは当然だと思ふ。「産経」論説委員の阿比留瑠比も「解消の理由が理解できない」と書いてゐたぐらゐ突然の連立解消だつたわけだが、中国大使の「指導」に唯々諾々と従つたのではないか。中道改革連合結党以後の斉藤の老獪ぶりを見てゐると、裏に中共の使嗾があつたのではないか、だからこそ、やはり媚中派の野田も圧倒的に不利な合併話を拒否できなかつたのではないかとの推測が可能のやうに思はれる。

今回の様々な動きを見てゐると、私にはスペインの哲学者オルテガが言ふところの「大衆人」が、右のやうな不見識な政治家たちと重なつて見えるのである。オルテガの言ふ大衆人とは「第一に、生は容易で豊かであり限界が無く、それゆゑ、自分の中に支配力と勝利を実感する。第二に、この実感が、自分の道徳的、知的財産は立派であるといふ自己肯定に繋がり、そして、この自己満足によつて、自己批判をしなくなり、しかも支配感情に左右されて、この世には自己とその同類しかゐないやうな行動を取ることになる。第三に、自分の凡俗な意見を、配慮も内省も手続きもなしに強行しようとする」といふものである。まるで彼らのことを言つてゐるやうではないか。

そしてまた、オルテガは以上の「大衆人」を一言で「甘やかされた子供たち」と命名してゐる。これまた当て嵌る。では誰によつて甘やかされたのか。言ふまでもあるまい。彼らと同じく「大衆人」が跋扈する左翼系マスメディアによつてである(オルテガ『大衆の反逆』神吉敬三訳、ちくま学芸文庫。適宜略述した)。(敬称略)〈了〉        (令和八年一月三十一日)

【追記】

統一教会の創始者文鮮明の指示により、統一教会と勝共連合が合同出資をして創刊した「世界日報」といふ総合日刊紙があつた(現在は電子版のみとのこと)。反共主義の新聞だけあつて私の敬愛する保守派論客たちも寄稿してをり、それを読みたくて、浦和に住んでゐた頃、二年間ほど郵送で取り寄せて読んでゐた。政治的な反共色は当然目立つてゐたが、統一教会色といふものは全く感じなかつた。

令和四年にはその世界日報社が『「LGBT」隠された真実 「人権」を装う性革命』(世界日報LGBT問題調査チーム)を上梓した。全一六八頁のパンフレット状のものであるが、しつかりと問題の所在を捉へ、五つの提言も行ふといふ良書である。

ただ、それだけの論陣を張る人たちが、日本及び日本人を悪しざまに呪詛する創始者やその妻の言ひ分を唯々諾々と受容するといふ構図が、私にはどうしても不可思議である。

吉田好克

吉田好克について 吉田好克は、神道・宗教・日本思想・歴史・政治・社会について、長年にわたり研究・教育・執筆を続ける論者です。 その関心の中心にあるのは、個々の時事問題そのものではありません。 日本とは何か。 日本人はいかに生きるべきか。 歴史や伝統を、現代にどう受け継いでいくのか。 そうした根源的な問いを、宗教、思想、歴史、社会のさまざまな角度から考え続けています。 論考では、福田恆存、江藤淳をはじめとする先人の思想や、国内外の文献を幅広く参照しながら、現代社会で当然のように語られている価値観や言説を改めて問い直します。 その姿勢は、特定のイデオロギーから現実を説明するのではなく、歴史、伝統、人間の営みという現実から、思想や制度を見つめ直すことにあります。 連続論考「蟷螂の斧」では、外国人労働者問題、戦後日本とキリスト教、原爆忌と平和思想、安全保障、靖国神社、保守思想、政治家論など、現代日本が直面する問題を幅広く取り上げています。 「蟷螂の斧」という名の通り、たとえ小さな力であっても、疑問を抱いた問題には自らの言葉で向き合う。 その文章には一貫して、日本の歴史と文化を次代へどうつなぐのかという問題意識があります。 本サイト「吉田好克.jp」では、「蟷螂の斧」をはじめ、これまでに執筆された論文、評論、寄稿、講義資料などを整理し、吉田好克の知的成果をデジタルアーカイブとして公開していきます。

この論考は役に立ちましたか?

参考になりましたら、下のボタンで教えてください。

コメント

この記事へのコメントはありません。

関連論考

新着論考
会員限定
おすすめ
PAGE TOP
ログイン 会員登録
会員登録