毎年のことだが、八月は憂鬱な月である。なぜなら、テレビも新聞も終戦記念日の前後に「大東亜戦争」について十年一日の如き番組や記事を垂れ流すからである。E・H・カーの言ふやうに、歴史とは、「解釈」のことであり、「現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(『歴史とは何か』岩波新書)なのだから、「対話」の結果として、先の戦争についての新たな歴史的検証や新事実の解明といつたものを放送するのなら大歓迎なのだが、周知の通り、一見真面目な企画に見えても、最後には「戦争の悲惨さ」を強調し、戦勝国アメリカの歴史観を疑ふこともなければ(「太平洋戦争」といふ呼称の使用が総てを物語る)、我が国がどうして戦はねばならなつたかを闡明しようとする気もない内容が多いからである(筆者が知らないだけで、例外があるかも知れないが)。
あらうことか、『産経新聞』までも、三年前の終戦記念日翌日の紙面では、七歳の少年から「戦争はいけない」といふ言葉を引き出し、今年は追悼式に曾祖母と共に参加した三歳の少年に「戦争はやったらダメ」といふ言葉を言はせてゐて、何と小見出しにも使つてゐる。およそ正気の沙汰とは思はれない。
さて、八月十五日である。これまでも「全国戦没者追悼式」における歴代総理の式辞は一定のパタンがあつた。それは、「今日の我が国の平和と繁栄は戦没者の尊い犠牲の上にある」といふ一見感謝の言葉から始まり、途中を「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」といふ反省の弁で繋ぎ、最後は「恒久平和」「世界平和」の実現を誓ふといふ構成である。今年式辞を読んだ石破茂総理もそのパタンを踏襲したが、反省の部分では「進む道を二度と間違へない」「反省と教訓を、今改めて深く胸に刻まねばならない」などと、「国策を誤り」云々の戦後五十年の村山談話に近い言葉を挿入した。「反省」は野田佳彦以来十三年ぶりのことださうだ。石破も野田も同じやうな歴史観を共有してゐるとのことだが、門田隆将によれば、中共が繰り返し要求して来た通りに「反省」といふ言葉を入れたとのことである(『Will』十月号)。もしさうだとすれば、実に政治的な駆け引きであり、戦没者を真に追悼する気が石破にはないといふことになる。そんな石破は九月に戦後八十年の「個人的な談話」を出さうとしてゐると聞く。およそ世界で戦争を「反省」した国はないことを石破や野田は何と考へてゐのだらうか。おそらくは、それをする自分は善人の極みとでも思ひ做してゐるのだらう。
これまで、その重要性に鑑み、幾度か筆にして来たことで恐縮だが、何度でも言ひたい。先の戦争が「惨禍」を招き、「二度と繰り返さない」と言つてしまふと、その戦争は「悪」だつたといふことになり、戦没者はそれを遂行した悪人――特攻で散華した英霊たちも――といふことにならないか。また、如何なる戦争にも惨禍が付き物なのだから、今後は侵略されても白旗を上げ、戦闘行為は行はないといふことになる。これは中学生にも分かる論理であるはずだ。
右の言葉「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」は安倍元首相でさへ使つたが、英霊や一般戦没者への追悼の言葉とはなり得ぬどころか、彼らの顔に泥を塗ることであることがどうして分からないのか。それに、本当に今後戦争をしないのであれば、そもそも自衛隊は無用の長物となつてしまふ。政治家たちは、戦はなければ命も暮らしも守れぬ事態といふものを想定しないのだらうか。不思議である。「政治には、それ〔魂の救済〕とは別の課題、つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある」といふ先哲の言葉もある(M・ヴェーバー『職業としての政治』脇圭平訳、岩波文庫)。首相や衆参の議長が揃ひも揃つて能天気に「不戦の誓ひ」を宣言する国――そんな間抜けな国で国民の国防意識が高まるはずがない。こんなことでは九条の改正なんぞ夢のまた夢であらう。
言ふまでもなく、「平和」といふものは、人間の「健康」同様、積極的行動規範を含意しない。「頗る健康」だけれどもぐうたらな人間もゐれば、「病弱」だけれども世に有用な人もゐる。だから、「健康」がさうであるやうに、「平和」もそれ自体に至上の価値があるわけではない。
「米国も世界大多数の国でも、目指すべき平和には国家や国民の自由や独立が伴うという条件を必ずつける」「日本の平和論は平和をどう守るのか、戦争をどう防ぐのかも、まず語らない」「平和という言葉の極端な呪縛のために、わが国家、わが郷土を防衛することを最初から放棄してしまう」との古森義久の指摘は完全に正しい(「日本の『8月の平和論』に欠陥」『産経新聞』八月十六日)。
我が国の平和論がなぜさうなるかと言へば、先の大戦に大敗北を喫したゆゑの厭戦気分、米軍が徹底的に行つた情報操作(WGIP)などにより、所謂「正常性バイアス」(自分にとつて不都合なことを無視したり過小評価したりする認知の傾向)が精神の深奥にまで達してしまつたことが挙げられよう。要するに、思考の不徹底なのである。
そして、思考の不徹底と言へば、広島、長崎の原爆についても同様である。国の朝野を挙げての追悼式が、なぜ広島、長崎に対してのみ行はれるのか読者は考へたことがあるだらうか。断つておくが、私もまた日本人として、原爆に斃れた方々、そのご家族、また、未だに後遺症に苦しむ方々と怒りや悲しみを共有したいと願つてゐるし、原民喜や峠三吉の詩や小説を涙なしには読めない人間である。
しかし、と私は思ふ、なぜ同じ年に行はれた「東京大空襲」が同列に扱はれないのかと。これへの答へは、実は、福田恆存が既に昭和三十六(一九六一)年に明確に論じてゐる。福田は、一挙に全人類を死滅せしめる原水爆は悪魔で、精々ひと家族しか殺さぬ爆弾は悪魔ではないのかと問うて、次のやうに書いてゐる。読者諸兄姉にはじつくりとお読み戴きたい。
「それにもかかはらず、原水爆はやはり『現代の惡魔』である。なぜなら、人々はこの『大惡魔』の威力を恐れて、世に『惡魔』と呼びうるものはそれのみと思ひこみ、その他の『中惡魔』『小惡魔』の存在を何程のものとも思はなくなつてしまつたからである。『大惡魔』の威力を封じる運動が、ただそれだけで最高の美徳となり、世界戰爭を避けるための努力が、局地戰爭の犠牲を蔽ひ隠す。この、いはば價値に對する無感覚と混亂こそ、『悪魔』との取引にほかならない」(「現代の惡魔」『全集』第五巻、文藝春秋)。
福田はそれとは明示してゐないが、昭和十九年十一月から二十年三月まで百回以上の執拗な空襲に見舞はれた東京人として、とりわけ三月九日から十日未明にかけてのアメリカ軍のB29爆撃機三四四機によつて行はれた「東京大空襲」を想起してゐたのではなからうか。これは焼夷爆弾による絨毯攻撃で、一晩に約十万人の都民が焼け死んだ。被害者数だけを挙げれば長崎の約六万人より多数の死者が出たのである。もちろん、人数の多寡を論ひたいのではなく、福田の指摘するやうに、我々日本人はいつしか焼夷弾による「東京大空襲」を中もしくは小の「惡魔」の仕業と見做し、「局地戰爭の犠牲を蔽ひ隠す」ことが習ひ性となつてゐるのではないか。だからこそ、現在行はれてゐるロシア=ウクライナ、イスラエルとハマスの「局地戰爭」を見ても、「平和憲法」を隠れ蓑に具体的な行動を取ることもなく、それでゐて「世界平和」「恒久平和」を実現するといふ空念仏を首脳が唱へても、国民から澎湃と批判が湧き起こるといふこともない。国を挙げての偽善と言ふほかはなからう。
「平和」が尊いものであることは論を俟たない。そして、尊いものは護らねばならないと考へるのに理屈は要らない。一般の家庭でも留守をする時は鍵をかけるし、会社なら警備会社と契約をするであらう。八月十五日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と昭和五十七年、鈴木内閣の時に閣議決定されたものだが、「平和」は祈念したからといつて手に入るものではない。だが、我々はこの日に平和を祈念すると、また一年、景気や経済のことばかり憂へ、戦争についても平和についても深く考へることをせず、八月が巡つて来るとまたぞろ神妙に「反省」し「謝罪」し、平和を「祈念」するのである。
本当に大事ならば、八月だらうが一月だらうが、考へるべき事柄は常に考へるべきではないのか。パスカルなら、「もし人が生涯の一週間を捧げるべきであるならば、人は百年を捧げるべきである」と言ふところかも知れぬ(『パンセ』)。勿論、「喉元過ぎれば熱さを忘れ」、「病治りて医師忘る」のが人の常であり、私とて例外ではないからさういふ人間の性向を咎めてゐるわけではない。むしろ、自然に任せておいたら忘れてしまふやうなことは忘れれば良いと思つてゐるだけである。忘れようとしても忘れられないことだけが真に重要だからである。そして、「忘れられない」といふことは、年に一度だけ思ひ出すことではないはずだ。「戦後○○周年」を冠した「談話」なんぞ、いい加減に止めるべきである。第一、いつまで「戦後」なのか。(敬称略)〈了〉(令和七年八月二十八日)
【追記】
我が師の竹本忠雄先生も、当時、深川界隈に住まはれてゐて、この夜、罹災して戦火の中をお父さんと逃げ惑つたお一人でした。結局、江東区の清澄庭園にある池(大泉水)の中の島に逃げ込み、濡れた布団を体に巻き付けて九死に一生を得られたのです。小学校の同級生の半数が焼死し、予定されてゐた卒業式は行はれませんでした。
そもそも卒業式のために疎開先から戻つて来てゐた六年生が空襲に遭つたのですから、運命の皮肉と言はざるを得ません。
その後、月日は流れ、竹本先生と同級生の女性のお二人が「東京都八名川国民学校」(現・江東区立八名川小学校)の卒業式に出席。当時の校長から「八名川国民学校」名の卒業証書を贈られました。竹本先生六十五歳の春でした。
また、さらに後年、令和四年三月十日に、靖國神社において「戦う僕ら少国民顕彰鎮魂祭」を開催されました。主催者代表として竹本先生が祭文を朗読され、最後の一節は次のやうに締めくくられてゐます。要は、同級生たちは、戦後の軽佻浮薄な世論が言ふやうな「戦争犠牲者」ではなく、幼いながら銃後の国民として立派に凛として生きてゐたのだとの思ひを綴られたのです。以下、分かる人には分かると思ひます。
《その多くを焼き亡(ぼろ)ぼした猛火の中から、猛火よりも強く、いま、彼らの殉国の歌声が聞こえてきます。/神とまします英霊に願い上げ奉ります。/たとえ戦死者と呼ばるること適(かな)わぬとも、/せめて今日、/ここ九段の大鳥居の空に、/「戦う僕ら少国民」の精霊(しょうりょう)を迎え、/親しく照覧したまわらんことを!》















コメント