東京大学先端科学技術研究センター准教授の小泉悠を、テレビの討論番組などで一度も見たことがないといふ人はゐないに違ひない。専門がロシアの軍事・安全保障なので、ロシア=ウクライナ戦争勃発以来、マスメディアへの登場が頻発してゐる。そして、昨年(二〇二四)十二月にはフジサンケイグループ主催の「正論新風大賞」を受賞した。
彼の面構へといふか表情は引き締まつてをり、私も好印象を持つてゐた。だが、私はテレビの討論番組をほとんど見ないので――スポンサーやその局の報道姿勢の色が必ず付いてゐて、信用できないと感じてゐるから――、彼の所論をきちんと聴くことがあまりなかつた(所論を喋りより文章で判断する傾向が私にはある)。ただ、彼に対する関心はあつた。そこで、たまたま『正論』七月号に彼が「自民党憲法改正研修会」で行つた講演内容が掲載されてゐたので読んでみた(講演ではあるが、活字にする際には著者の校閲を経てゐるはずだから、著作物と判断して良いと思ふ)。
彼は東大の准教授なのだが、出身は早稲田大学で、社会学部を卒業後、政治研究科(修士)に学んでゐるので、東大の生え抜きといふわけではない。そこはむしろ魅力的である。けれども、この講演を読むと、やはり東大か、東大でやつてゆくには極論は吐けないのだらうと非常にがつかりした。つまり、多方面に忖度した思考の不徹底を露呈したものだつたからである。
彼は、一方で、「憲法が前提としてきたようなやり方では日本の安全を保てないのではないか、さらに言えばアジアの安全を保てないのではないかという考えが、私にはまず根底的にあります」と言ふ。さらに台湾問題に触れて、「軍事的なものも含めて自由な東アジアを守る実力を持った日本であってほしいと、私は願っています」とも言ふ。ここまでは賛同できる。
しかし、さう言つた舌の根も乾かぬうちに、「核武装国家日本」であつて欲しくないと言ふのだ。「軍事的合理性で突き詰めて考えていくと、どうしても核の問題が視野に入ってくるのですが、しかし価値観の問題として日本に核を持ってほしくない。(略)自由で民主的な日本であり続けてもらいたい。これが私は、憲法によって守られるべき価値だと思うのです」と。軍事の専門家なら、感情論ではなく「軍事的合理性」こそが重要であるはずではないか。ハドソン研究所の村野将によれば、中共のミサイル戦力の増強は著しく、南西諸島はもとより西日本の主要な自衛隊と米軍基地の大半が「開戦と同時に一気に無力化されてしまう」可能性があるといふ(『外交』日本外務省、七十一号)。そのやうな現実を正視すれば、攻撃されないための抑止力=核武装を真剣に考へることが「軍事的合理性」であらう。ところが、「価値観の問題として」これを否定する。この「価値観の問題」の意味がそもそも不明である。「個人の趣味として」といふ風にしか読めない。また、核保有国はすべて「自由で民主的」でないと考へてゐるかのやうだ。「憲法によって守られるべき価値」に至つては噴飯ものとしか言ひやうがない。米国製の憲法は我が国とその「価値」を貶めようといふ意図で作られたものであるのは議論の余地がないからだ。
さらに、安全保障の在り方をめぐつては「脅威そのもののことももちろん考えるのですが、加えて『その脅威から守りたい価値は何だろうか』までを考える、そこに安全保障という考え方の特徴があると思います」「何を守るための安全保障かを考えた憲法改正議論をする必要があろうと思います」などと言つてゐるけれども、これはまたずいぶんと愚鈍なる発言である。安全保障と言ひ慣はされてゐるものは実はセキュリティのことであり、それは守るべき対象が既にあつて初めて成立するものではないか。セキュリティの体制を整へてから何を守るかを議論するとしたら、順序が逆であり、相当に間抜けな話である。私に言はせれば、高市早苗が自民党総裁選や他の機会に常に力説するやうに、国家が守るべきものは「領土、領海、領空、資源、主権、名誉」に決まつてゐる。憲法第十三条に言ふ「国民の生命・財産・幸福追求の自由」をはじめ、福祉も教育もすべて上の項目が守られてのみ保障される。もちろん、それらを守るための手段や戦略はいくつもあり、外交努力もその一つ、軍事的努力もその一つである。憲法改正の議論も当然そこに含まれよう。
ところが、改憲派と護憲派の議論について「まずは相手を憎まずに話し合うことが何とかできないか、と私はこの数年、ずっと考えています」「意見は違うとしてもまず一回、お互いの話を虚心坦懐に聞いて話し合ってみましょうと、私は申し上げたい」と宣ふのだ。これまで何十年にも亙つて「議論」はされて来たではないか。結論部でも「憲法をどう改正すべきかについては、まず大いに議論しましょう、でも同じ日本人として、互いに憎まず議論しましょう」と重ねて言つてゐる。東大の教員とは何と能天気な商売であることか。
この言で思ひ出すのは、東大教授の宍戸常寿である。彼も『正論』(平成二十九年六月号)に掲載の論文の中で、これまでの改憲派と護憲派に足りなかつたのは、多様な意見に対する「顧慮」と、さういふものの「摺り合わせ」だとした。それを批判して私は「『戦争はイヤだ!』なんぞといふ子供じみたプラカードを持つて歩く人たちの何を『顧慮』せよと言ふのか。どことどこを『摺り合わせる』のか。かういふのを『絵に描いた餅』と言ふのである」と書いた(拙著『続・言問ふ葦』高木書房、五十六頁参照)。
誰に頼まれたわけでもないのに、「御平らに、御平らに」と言はんばかりのこの行司役を買つて出る僭越さは、他の大学教員にはなかなか見られないものではなからうか。画餅の議論といふものは、頭が悪いか、真剣に考へてゐないか、保身のためかのいづれかであらう。
もう一つ取り上げたいのは、「本当に戦うべき相手は日本の社会を脅かす国外の勢力で(略)考えが違うからといって、同じ日本人同士で争っても仕方ないでしょう」「〔米国内の問題を挙げて〕そうした分断が外国の介入を招くことにもなり、さらには介入がなくても国内が勝手に自壊していくことになりかねません」との主張だ。
先づ、私自身改憲派であるが、改憲派と護憲派の議論は国の命運を懸けた思想戦であつて、単なる「争い」ではない。「争っても仕方ない」との評言は事の重要性を理解しない自らの軽薄を問はず語りに示してゐよう。そして、日本人同士による「分断が外国の介入を招く」と言ふのだが、それ以前に、既に外国の勢力が日本国民の分断を目的として裏工作を行ひ、それに迎合し利益を得てゐる国内勢力(評論家池田良子の言ふ「赤いネットワーク」など)が現実に存在することを知らないのだらうか。だとしたら、不勉強極まりない。さういふ勢力によつて「国内が勝手に自壊していく」ことを防ぐためには、「御平らに」なんぞと呑気なことは言つてをられないのだ。
最後に、私が最も赦せないと思ふ箇所について。「安全保障政策や国防の目的は、究極的には国民が平和ボケしていても大丈夫なようにするためではないか」といふ箇所である。人間を知らぬにもホドがあらうといふものだ。直接国防に当たるのは自衛官諸氏であるが、その背後に、つまり銃後に、自国を、自国の「価値」を守らうとする一貫した国策やそれを支へる自尊の精神を持つた国民がゐなければ兵士は十分に戦へまい。彼はウクライナ国民の必死の奮闘ぶりを見てなほこのやうに述べるのだから、「論語読みの論語知らず」であると評するほかなからうと思ふ。〈了〉(敬称略) (令和七年八月九日)















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