鱓(ごまめ)の歯ぎしり

日本学術会議の「法人化」はイカサマである

昨年末、かねてより議論の的となつてゐた「日本学術会議」(以下、学術会議と略記)が法人化される方向で決着した。これに一定の評価を下す保守系知識人もゐるやうだが、「内閣府特命担当大臣決定」(令和五年十二月二十二日)といふ公開文書を仔細に読むと、イカサマであることが分かる。

先づ第一に、その《使命及び目的》の項に、「科学(自然科学だけでなく、社会科学及び人文科学のすべてを含む。)が国民及び人類共有の知的資源であり」云々とあるのだが、所謂「人文科学」は本来科学ではない。

現在の日本で「人文科学」と言はれてゐるものは英語ならHumanitiesであり、「人文学」だ。実際にさう言ひ慣はされた時代もあつたが、自然科学や社会科学と並び称するための言はば語呂合はせから生まれたのが「人文科学」であつて、出自からして胡乱な用語なのである。文学や法学や経済学の研究者が自らを「科学者」と称することは先づ無いし、文学などは本来「学」ですらなく、「文芸」とでも訳すべき言葉で、それ自体学問でも科学でもない。文学作品、文学研究と一般に言ふけれども、実際は文芸作品であり、文芸研究なのである。せつかく法人化といふ大改革をしようといふ時に、この「科学」の意味をきちんと吟味もせずに旧弊を踏襲するといふのは、内閣府が本気で改革しようといふ気が無い証拠ではなからうか。

そのことの弊害は、文科系の学者たちが、基本的には「言葉」を相手にするゆゑにどうしても抽象論に走りがちとなり、科学とは異質なイデオロギーと容易に結び付いてしまふことである。当時の菅首相によつて任命を拒否された六名の学者たちが揃つて文科系だつたことは偶然ではない。

『日本学術会議の研究』(WAC)の著者白川司も言ふやうに、学術会議は本来的に「科学アカデミー」であり、理系が中心であるべきはずのものだ。昭和二十四年に制定された学術会議の「総理府設置法」における「科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させるための機関とする」にせよ、「日本学術会議法」の前文における「科学が文化国家の基礎であるという確信に立って」にせよ、普通に読めば狭義の科学を中心に構想されてゐたことが明らかである。それゆゑ、初代会長の亀山直人に始まり、現在の光石衛に至るまで、二十一期目に二カ月だけ会長を務めた法学者広渡清吾以外はすべて理科系の学者が会長となつてゐる。

ではなぜ文系の哲学や文学が入つてゐるのかと言へば、理由は不明だが、最初から七つの「部会」といふものが設定されてゐたからだ。第一部が文学・哲学・教育学・心理学・社会学・史学、第二部は法律関係、第三部は経済関係、第四部は数学、物理、化学関係、第五部は応用物理、機械工学、土木関係、第六部が農学関係、第七部が医・歯・薬学関係と振り分けられてゐる。

三島由紀夫自刃の年、昭和四十五年に、今何とかしなければ「われわれは次の時代に対してたいへん不幸な遺産を残すおそれがある」といふ「危機感」から刊行された『赤い巨塔「学者の国会」日本学術会議の内幕』(時事問題研究所編)では、右の第五部と第七部は「左翼勢力の進出が少なく、共産党の泣きどころ」とされてゐる。理由は医学や工学には具体的な肉体や物質との格闘があり、空理空論に走らないことに求められるのではないか。

ともあれ、発足当時から多くの識者によつて問題視され、今もなほ問題視される理由は、偏に、昭和二十一年に結成された「日本民主主義科学者協会」(戦前のプロレタリア科学研究所や唯物論研究会の主要メンバーが中心)と、その後継組織で今も存続してゐる「日本科学者会議」を通じて、日本共産党がその細胞を組織的に学術会議に送り込み続け、学術会議が日本共産党の「植民地」となり果ててゐるからである。これで問題とならないはずがない。

次に問題なのは《財政基盤》の項であり、そこには、「新たな日本学術会議は、活動・運営の活性化、独立性の徹底という視点からも、財政基盤の多様化に努める。/その上で、必要な財政支援を行う」とある。「独立性の徹底」と言ひながら、「必要な財政支援」を行ふと言ふのだが、改行後の「行う」の主語が無く、それまでの主語「学術会議」ではをかしいので一瞬面喰ふし、誰に対して行ふかも不明瞭な粗雑な文章である。が、おそらくは、政府が学術会議を支援するというふうに強引に読めば読める仕掛けとなつてゐるのではないか。そしてさらに、「外部資金獲得の支援に必要な措置も検討する」と付け加へられてゐるのである。つまり、自前の努力で外部資金を獲得するのではなく、そのための支援も政府がするといふことらしい。

これまでの「日本学術会議法」では第四条において「(略)科学の振興を図るために政府の支出する交付金等の予算及びその配分」を政府が学術会議に「諮問」できると書かれてゐる。「諮問」とは意見を求めることではないか。そして第五条には、「学術会議の目的の遂行に適当な事項」を「会議」側が政府に対し「勧告」できるとある。「勧告」とはそうすべきであると勧めることである。事程左様に、学術会議は最初から政府の上に立つ組織として規定されてをり、主客転倒となつてゐるのだ(先述の「設置法」には「総理大臣の所轄の下に置く」とあるのだが)。

従つて、これを是正しない限り、毎年十億円超の「公金チューチュー」の体質を改めさせることはできないが、実際は右に見た通りのイカサマ改正なのである。

次に、《ガバナンス》の項には、「運営助言委員会(仮称)を置き、予算・決算、中期的な計画その他の運営に関する重要事項(略)について意見を述べる。委員は会員及び連携会員以外の者が過半数となるよう会長が任命する」とある。しかし、会長一人が任命する助言委員とはどのやうな人士であるか、少なくとも偏るのはおよそ想像がつくのではなからうか。そして、「新たな学術会議は、毎年、業務執行、組織及び運営等の状況について自ら点検及び評価を行い、その結果を公表する」さうだが、国立大学が独立法人となつて以後、大学と文科省が盛んに行つてゐる自己点検評価などは形式的なものに過ぎず、大した成果も無いほとんど茶番と言つて良いものだ。

会員の選考方法も大いに問題だ。今回の文書でも会員の選考方法は現役会員が次期会員を推薦する「コ・オプテーション方式を前提とする」とある。「前提とする」の意味が不明だが、要するに、現行の学術会議が平成十七(二〇〇五)年より導入して来た方法をそのまま踏襲するといふことで、部外者は選考に加はれない。これのどこが「透明かつ厳正な」選考と言へるのか。しかも、「運営に関する事項を審議するために」幹事会を置くとしてゐるが、その「幹事会の構成員は会長が任命する」のである。これも人選の偏向を生む温床とならう。

以上を要するに、「法人化」とは名ばかりで、字句を多少修正しただけなので旧態依然たる組織になることは明らかだ。これらのイカサマを見抜き、この組織を廃止に持つて行けるやうな慧眼の政治家の出現が待たれる。〈了〉(敬称略)(令和六年二月号)

吉田好克

吉田好克について 吉田好克は、神道・宗教・日本思想・歴史・政治・社会について、長年にわたり研究・教育・執筆を続ける論者です。 その関心の中心にあるのは、個々の時事問題そのものではありません。 日本とは何か。 日本人はいかに生きるべきか。 歴史や伝統を、現代にどう受け継いでいくのか。 そうした根源的な問いを、宗教、思想、歴史、社会のさまざまな角度から考え続けています。 論考では、福田恆存、江藤淳をはじめとする先人の思想や、国内外の文献を幅広く参照しながら、現代社会で当然のように語られている価値観や言説を改めて問い直します。 その姿勢は、特定のイデオロギーから現実を説明するのではなく、歴史、伝統、人間の営みという現実から、思想や制度を見つめ直すことにあります。 連続論考「蟷螂の斧」では、外国人労働者問題、戦後日本とキリスト教、原爆忌と平和思想、安全保障、靖国神社、保守思想、政治家論など、現代日本が直面する問題を幅広く取り上げています。 「蟷螂の斧」という名の通り、たとえ小さな力であっても、疑問を抱いた問題には自らの言葉で向き合う。 その文章には一貫して、日本の歴史と文化を次代へどうつなぐのかという問題意識があります。 本サイト「吉田好克.jp」では、「蟷螂の斧」をはじめ、これまでに執筆された論文、評論、寄稿、講義資料などを整理し、吉田好克の知的成果をデジタルアーカイブとして公開していきます。

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