この表題で書くのは五回目(一回目は『続・言問ふ葦――「常識」を取り戻すために』所収――吉田註)であるが、毎年、三題に絞ることに難渋することになり、今年もその例に漏れない。
ざつと分類して思ひ出すままに項目を挙げれば、中共関連(海洋探索ブイの未撤去、NHK海外ラジオ放送ャック、靖國神社への侮辱と汚損、蘇州でのスクールバス襲撃、深圳での男児殺害、中国海警船や空軍機による領海・領空侵犯)、内政関連(能登半島への予算対応の優柔不断、移民政策への完全移行、LGBT法による様々な問題の生起、義務教育へのデジタル教科書導入、クルド人の川口・蕨での狼藉、衆院選での稲田朋美、新藤義孝、細野豪志ら不適切な輩の当選、財務省とその言ひなりの議員たち、経産省の再エネの重点化)、自民党関連(岸田文雄の数々の失政、弥縫策と保身をモットーとする石破茂、憲法審査会会長職の枝野幸男への譲渡)などがあり、国連女性差別撤廃委員会による皇室典範への容喙も腹立たしい限りだ。
しかし、今回は個々の時事問題について論ずるのではなく、むしろ、深いところで日本を蝕み、日本人を精神的にも政治的にも劣化させてゐる当のものについて論じたいと思ふ。
ここ十年ほどにもならうか、マルクス風に言へば「多様性といふ妖怪が日本を徘徊してゐる」となる。それ自体価値づけとは無縁なはずの言葉が、何か金科玉条のごときものとして独り歩きするやうになつた。だが、多様性といふものは物事の結果であつて目標にはなり得ぬものだ。例へば、骨格や造作から見た「顔」は同じ日本人でも千差万別、つまり多様だが、これは遺伝や生育環境などにより決定づけられるもので、人為的に多様性それ自体を目標にするといふことはあり得ない。そして、このやうな実体の無い言葉を政府や政治家やマスメディアが垂れ流すことにより、多くの同胞がまるで催眠術にかかつたかのやうに、多様性を意義のある、達成するべき目標として見做すことになつてしまつた。
しかし、多様性を主張する人士は、実は少数派なのである。多数派に見えるのはマスメディアに左翼系人士が多いのと、在野に声の大きい活動家がゐるためである。そして、この虚構の「多数派」に怯えてゐるのが保守系の国会議員たちと一般の善男善女、この虚構を利用してゐるのが左翼陣営の議員たちと公金狙ひの活動家たち、といふ構図となつてゐる。
百害あつて一利無しのLGBT理解増進法もこのやうな構図の中で昨年成立してしまつたのである。実際、同法の「目的」には「多様性を受け入れる精神を涵養し」と書かれてゐる。無論、性的志向や嗜好は多様であつて構はないが、この問題を詳細な検討をせずに、つまり思考停止をして突き進んだのは多様性幻想のしからしむるところではなかつたか。また、「反差別」「ポリコレ」「少数意見の尊重」「夫婦別姓」「同性婚」「移民政策」など、我が国の文化を内側から崩壊させかねない動きも、この「多様性」を錦の御旗としてゐる。
だが、LGBT法で言ふ「差別」なんぞ我が国にありはしない。テレビ番組ではその種のタレントが人気を博してゐるし、実際の性的少数者からは「立法の必要は無い」「差別されたことは無い」「却つて迷惑」といふ意見が多く聞こえて来る。差別とは総じて社会的不利益を対象者に被らせるやうな法的処置のことであつて、イスラム教圏の国々で今なほ行はれてゐる極刑が究極的差別と言へよう(「東京レインボー・プライド」もさういふ国々に向けてデモをしたらどうかと思ふ)。
そもそもLGBTのイデオロギーは、ジェーソン・モーガン麗澤大准教授によれば、「〔米国の〕児童性虐待者の常習者が犯罪を隠蔽し、自らを正当化するために発明したもの」であり、最近それに付加された「Q(クィア)」は「共産主義者と虐待常習者が過激な方向に発展させたもの」なのである(『アイデンティティ』十月号)。また、Gを自認する松浦大悟元衆議院議員によれば、十年以上前から米国民主党は日本の活動家たちを米国に招き、手厚くもてなした上で教育してゐるのである(「LGBTをめぐる米民主党の画策」『正論』昨年七月号)。温和で和合の精神に富んだ日本人への羨望なのか妬みなのかは分からぬが、共和党の反対で自国で成立させることの出来ない法案を日本で成立させるべく動いたのがバイデン民主党であり、それに感化され使嗾されたのが岸田文雄であつた。
自民党の国会議員たちが立法に荷担したのは、事実上の党議拘束があつたことの他に、一つには、これの法制化から利益を得る左翼人士たちの組織が自民党議員の懐に飛び込んで思想的に誘導してゐるからである。これについては池田良子の「赤いネットワーク」シリーズに詳しい(『Hanada』三、四、七、九月号参照)。二つには、小泉進次郎のやうな不勉強な政治家たちが、現実には多数派ではない思想に感化され、バスに乗り遅れてはならじと考へたからであらう。他の問題も概ね似たやうなものなのだ。
人はしばしば「少数意見の尊重」と言ふが、その「尊重」とはどういふことなのか。「尊いものとして重んずること」と辞書にあるが、尊重するに値しないから多数派によつて斥けられ少数意見とされるのがふつうである。それを尊重しようと言ふのは偽善である。民主主義の原理は多数決であり、そもそも選挙がその原理で成り立つてゐるではないか。
丁度三十年前、当時は一介の弁護士だつた福島瑞穂は、「既婚はもう恋の障害じゃない」といふ不道徳なことを『婦人公論』(七月号)に嬉しさうに書いたが、これは明白に憲法違反である。憲法二十四条には「婚姻は相互の協力により維持されなければならない」とあるではないか。幸ひ日本社会は健全だから、当時も今もこれは「少数意見」である。かういふ底抜けの愚物が参議員でゐられるのは民主主義が支払はねばならない代価であらう。
フランシス・フクヤマはリベラルな民主主義を称揚しつつも、それは「平等な権利を認めさせたいという極度に肥大化した欲求にはけ口を与え、他方で『優越願望』の再解放へと道を開いていく」と書いた(『歴史の終わり(下)』三笠書房、二六一頁)。「多様性」を錦の御旗に掲げるあらゆる思想はこの「肥大化した欲求」と「優越願望」によるもので、究極的には「個」の無限の尊重、「個」の無限の自由を目指すものであらう。しかし、それらは頭蓋に宿る幻想的観念に過ぎない。人間は一定の不自由や宿命を受け入れることで初めて自由になれるといふ逆説的存在なのである。なぜなら、人間は誰でも宿命的な関係性の中で生まれ、生き、死んでゆくからだ。特定の父母のもとに日本人として男(もしくは女)として生まれたことや、母語が日本語であることもさうである。氏名をはじめ何一つ自己の選択によるものは無い。そこに文化の重要性がある。「文化とは目的として示し得ぬもの、意識的に追求し得ぬもの」なのであり(福田恆存「伝統に対する心構」)、我々は「文化を護る」などと言ふが、我々はむしろ文化によつて護られてゐると知るべきなのだ。
最後に、フランスの現代哲学者アンドレ・コント=スポンヴィルの言葉に耳を傾けよう。「肝心なのは、自由への執着を断ち切る術を学ぶことだ。その時に生まれる自由とは叡智の別名にほかならない」(『哲学はこんなふうに』紀伊國屋書店、一〇四頁)。〈了〉(敬称略)(令和六年十二月号)














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