最近、所謂「専門家」とは何かと考へさせられることが多い。
昨年(令和二年)一月時点で、ヒトからヒトへの感染は無く、「過度に心配する必要はない」と言つたのは国際感染症対策室医長だつた。他にも、マスクやPCR検査の有効性、非常事態宣言やワクチン接種や感染症第二類指定の是非、等々について専門家同士が甲論乙駁状態だ。政府の対策分科会の結論に異を唱へる専門家もゐる。門外漢にも分かるのは、日本の感染者・死亡者数が他国に比して極端に少ないといふ事実のみだ。
原発の問題も同様の有様だが、これは廃止派の言ひ分があまりにも無責任で誤りも多いから素人でも比較的判断がし易い。
「朝日」の主張の逆を行けば正解といふ経験則もあるが、ともあれ、左派の好きな再生可能エネルギーは気候に左右されるので、電力の安定供給といふ点から見れば、今の技術の段階で「原発ゼロ」を主張するのは無責任であらう。
一方で、汚染水か処理水かの命名の段階で既に意見の対立がある。これも素人には分かりにくい。
ところで、右は医学や科学など理科系の話であるが、これが文科系の話となるとさらにイデオロギーが入り込むから一層注意が必要だ。
例へば、最近使はれるやうになつた「イスラーム」といふ長音の挿入は、より原音に近いといふ理由らしいが、「教」が外された理由を筆者は知らなかつた。そこで飯山陽(あかり)の新著『イスラム教再考』(扶桑社新書)を読むと、それが「日本のイスラム研究業界」の「ルール」らしい。イスラムといふ言葉には神の教への意が含まれてゐるからで、それはさらに宗教の範疇を超えて人間社会のあるゆる面の規定だからとのこと(京大名誉教授小杉泰)。しかし、飯山によれば、イスラムは「神の教えに無条件に従う」といふ意味である。だとすれば「教」を外す理由になるとは思はれない。さらなる問題は、不寛容で排他的なこの宗教の桎梏を隠蔽し、もつと奥深く幅広い文化概念であるかのやうに思はせ、延いては欧米や日本の近代を批判し、イスラムがそれに代はる「唯一の選択肢」だと日本人に錯覚させる効果を狙つてゐるとのことだ。
かういふ連中が反日に動くのは見易い道理である。先年の安保法制反対の「学者の会」や「中東研究者アピール」には多数のと言ふより飯山を除く殆どのイスラム学者たちが名を連ね、東大名誉教授で文化功労者の板垣雄三を筆頭に、国立私立を問はず、有名大学に勤務するイスラム学者たちが「集団的に反政府活動」を行つてゐるのである。
「専門家」とは一体何であらうか。(令和三年五月号)














