先月、日本保守党が旗揚げを行ひ、自民党政治に愛想を尽かした「岩盤保守層」がこの立党を大歓迎したが、これを機に改めて「保守」の意味を一考したい。
保守と言へば、保守派屈指の思想家福田恆存の言説に学ぶことは多い。
福田は六十年以上前に「私の保守主義観」といふ三千字余りの文章を書いた。それによれば、先づ、改革派とは異なり、「保守派は保守主義を奉じるべきではない」とする。一読、驚く読者がゐるかも知れないが、主義とはこの場合、イデオロギーのことであり、それは未来を見通せると錯覚して、進歩を「最高価値」「目的」とする進歩派にこそ相応しいと言ふのだ。
一方、保守派は進歩や改革を嫌ふ。その理由は「その影響や結果に自信をもてないから」「全体の総計としてどういふ不便を招くか見とほしがつかないから」である。以上を踏まへて福田は、「保守派は見とほしをもつてはならない。人類の目的や歴史の方向に見とほしをもてぬことが、ある種の人々を保守派にするのではなかつたか」と書いてゐる。
LGBT理解法案もこのやうなケースに近い。然るに、この法案を陰で推進した自民党の古屋圭司は「産経」のインタビュー記事において、真の保守は、「日本の良き歴史や伝統、文化を大切にして、多様性を認め合うもの」で、「時代の変化に応じた大胆な改革もいとわない」と答へてゐるが、ネット番組で「自民党は従来から多数決は取らない」と驚くべき発言をした御仁らしい言葉だ。「多様性を認め合う」ことは政治的指針には決してなり得ず、「大胆な改革」も保守派が行ふものではない。重要なことは「すべてが見出されてゐるといふ観念をしりぞけ、自分の知らぬ自分といふものを尊重すること」なのだ。このやうな自己懐疑が古屋には欠けてゐる。
日本保守党にもそれを期待したいけれども、一方で福田は、「保守派はその態度によつて人を納得させるべきであつて、イデオロギーによつて承服させるべきではない」としてゐて、「態度」は多義的だが、これが日頃の物腰をも含むのなら、百田尚樹と河村たかしは些か品を欠くところが心配だ。
そして最も心すべきは、「自分の知らぬ自分」の発見で事足れりとするのではなく、その発見がさらに自分を知らうといふ新たな要請に道を通じてゐなければならないといふことであらう。それが保守派の態度であるべきで、「イデオロギー」を掲げるべきではない、といふ意味である。
そして、保守派は道徳的であることも必要だ。「保守派は無智といはれようと、頑迷といはれようと、まづ素直で正直であればよい」とは小欄の好きな言葉である。(令和五年十一月号)














