神谷明采(かみや・あさ)といふタレントの執筆による「パリにて ミス東大がハダ身で知った日本人差別」が『WiLL』七月号に掲載された。肩書こそ「タレント」であるが、論文題名にあるやうに二〇二〇年に「ミス東大コンテスト」でグランプリを受賞し、現在、東大大学院に在学中といふ若き才媛である。
この論文には冒頭の見開き左頁に大きなカラー写真が載つてゐる。それは彼女がエッフェル塔を遠景にして撮つた写真をXに投稿したもので、そこには「パリ生活4週目突入。アジア人カースト最下位を痛感してます」と記されてゐる。これを読んだ私は初め、「フランスには人種カーストがあり、日本人がアジア人の中でカースト最下位に位置してゐる」と解釈した。題名にも「日本人差別」とあるので自然にさう思つたのだが、読んで見るとさうではなく、「アジア人が人種カーストの中で〔黒人より下の〕最下位に位置してゐる」といふ意味であつた。中身は彼女が遊学先のパリで経験したいくつかの「怖い思い」から「差別」について考察したものである。
その「怖い思い」とは、「黒人男性に絡まれたり、嫌がらせのような言葉を投げかけられたり」したといふもの。他には、地下鉄で黒人男性に鞄をひつたくられさうになつたといふ話である。しかし、三十年以上前の話であるが、私もパリで留学生活を送つたので類似のことを見聞きしたし、「差別」らしきことも経験した。さういふ私から見ると、「かつて差別されてきた側であるはずの移民や黒人の中に、アジア人に対して差別的な態度をとる人たちがいるという現実」があり、「あえて語られることの少ない『差別されてきた側が新たに差別を生む』構造もまた、現代の国際社会の中に潜んでいる」といふ見立ては針小棒大ではないかと思はれるのである。確かに、反社会的行為や犯罪が黒人や移民によつてなされることが多いのは、理由はともあれ、フランスだけに限らないのは周知の通りである。
著者は多くの災難に遭つたやうだが、それは以下の理由によると思はれる。第一に、アジア人女性は小柄で華奢な体格の人が多い。第二に、これは特に日本女性に多いのだが、「人を見たら泥棒と思へ」といふ警戒心がほとんどなく無防備である。第三に、お洒落をしてパリを歩きたいのか、服装からして富裕層であるやうに見えることが多い(実際、彼女の写真を見ると特に派手ではないが、なかなかスタイリッシュで貧乏な留学生には見えない)。このやうな次第で、アジア人、日本人はスリやひつたくりに会ふ確率が格段に高いのであつて、「差別」とは必ずしも関係ないはずだ。だから、当時においても日本人留学生や研修に渡仏する大学教員の間では、裕福さうな服装は慎むとか、スリはド・ゴール空港から日本人に眼を付け、財布をどこにしまふかなどを観察してゐて然るべき機会を狙つてゐるとか、注意を喚起し合つてゐたのである(私の知人女性は一週間のパリ観光で二度もスリの被害に遭つたのだつた)。
また、神谷は「実際に、真っ黒のダウンコートの下にバッグをすべて隠し、チャックも上まで閉め、目立たないようにうつむきながら歩くことすらありました」と書いてゐる。「うつむく」かどうかは別にして、バッグを隠すやうに持つのは白人女性たちも同様である。バッグの上からコートを着ると、美的には問題であらうし、知り合ひの女性にどうしてか尋ねたことがある。「ひつたくりに遭はないため」といふのが答へだつた。ショルダーバッグを斜に掛けてゐるのも同じ理由だつた。犯罪の対象となることと差別の対象であることとは違ふのではないか。
そして、この論文のより本質的な問題は、著者が「差別」についてあまりに過敏になり、自己の中にも差別心があるといふことを必要以上に気にした結果、袋小路に入つてしまつてゐることではなからうか。
「海外で中国人に間違えられたとき、どこか心の奥で『それは違う』と拒否したくなる感情が湧いてくることがあるのです」と言ふが、同様の経験を何度かした私は、「あゝ、外見が似てゐるから、仕方ないな」と、至つて平常心で受け止めてゐた。逆に我々が間違へることもあるだらう。
そして、ごく一部の人の行動を見て、「出身国や民族全体を一括りにしてしまうのは、全く筋違いです」と正論を述べながら、「池袋駅西口付近など、中国語が飛び交うエリアに行くと、やはり居心地悪く感じる自分もいます」と書くが、それは当然の事であり、差別ではなからう。この辺りから論旨が混濁し始めてゐる。
そして一方では、日本における外国人労働者受け入れ対策の厳格化や、帰化人の選挙への立候補の制限を主張し、或いは外国人による日本の土地・不動産の買収などをも視野に入れた提言を行ふのである。それでゐて、「すべての移民を拒絶することは、現実的でも、理想的でもありません」と、まともな人間でそれを主張してゐる人はゐないにも拘はらず大袈裟に批判する(最近流行のストローマン論法だ)。
そして結語に、「安全保障対策に積極的に取り組み、守るべきものを守りつつ、多様性を取り入れ、共に成長できる社会。それこそが、これからの日本に求められる道だと思います」と書く。何と「共に」成長するのか不分明だが、それはともかく、ここで不用意に「多様性を取り入れ」としたことでお里が知れるのである。多様性は目的にしてはならないし、この左翼用語のせいで、我が国が多くのものを失つてゐることに思ひ至らないのは、控へ目に言つても未熟であらう。〈了〉(敬称略)(令和七年八月十八日)
【追記】
神谷明采はまだ若く、物書きとしては新米だらうから、本来は「蟷螂の斧」を振り翳す相手ではないのだが、敢へて取り上げたのは彼女を起用した『WiLL』編集部にも大きな責任があると思ふからだ。大家ならともかく、新人にはそれ相応の指導があつて然るべきだ。読者は代金を支払つてゐるのだから文章も商品である。商品に欠陥があれば、誠実な商人は製造元に突き返すか、自分で手直しをしてから売るだらう(或いは、値下げか)。商品をより良いものにして社会に送り出すことも編集部の責務の一つではないか。
前回、編集部の知的水準が低下してゐると嘆いたのだが、校正能力の不足も深刻だ。右の神谷論文のリードに「美容整形をする日本人は増えてきているが、そのメリット・デメリットとは。」とある。論文とは何の関連もないことに気付いた私は何となく閃くものがあつて、前月号(六月号)を調べてみた。そこには「偽りの自分にハマる『整形の沼』」といふ竹内久美子と黒川伊保子の対談記事があり、一字一句そのままのリードが使はれてゐたのである。否、正確を期すと、六月号では使はれてゐなかつた句点が、七月号では付いてゐるから、新たに手を入れたことは明らかである。何と言ふ杜撰さであらうかと、呆れるしかない。私はこのことを付属の葉書に書いて指摘したのだが、八月号の編集後記などで触れられることはなかつた。ずいぶんと読者を馬鹿にした話ではなからうか。
また、その編集後記であるが、八月号の「編集部から」に短文を寄せた(Y)なる編集部員は、「閑話休題」といふ言葉の意味を知らずに使つてゐた(「話を元に戻すと」といふ意味を「話題を変へて」と解してゐた)。無論、誰にも間違ひはある。しかし、他の三名の編集部員と編集長は互ひの編集後記の校正はしないのだらうか。或いは、したとしても誰も気付かなかつたのだらうか。自分が定期購読をしてゐる月刊誌を、かういふ人たちが編集してゐるのだと認識するのは楽しいことではない。『学者のウソ』(ソフトバンク新書、二〇〇七年)以来、私自身、注目し愛読してゐる掛谷英紀筑波大学准教授はこの月刊誌に毎号の如く登場するのである。嗚呼!















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