所謂「LGBT法案」は、制定されれば「負の遺産」となる悪法であるのは明らかで、推進派の異常な熱意の裏には別の動機――国民の分断や秩序破壊、そして自らの権益拡大――があるに違ひない。(本来、LGBとTは全く別問題であるが、ここでは深入りしない)。
この自民党提出の法案は「性的指向及び性同一性の多様性」についての「国民の理解の増進」といふ「あくまで理念法」とのことだが、何の理解か不分明なまま国や地方公共団体の具体的な役割の規定がある。学校においては、「児童、生徒又は学生」に対して「教育又は啓発」せよと。さうなると、例へば、どうして一部のホテルがGのカップルの利用を忌避するのか、その本当の理由も教へねばならなくなる。Lもその性愛には特殊事情があらう。法案の推進者たちは自らの子弟にそんな教育を受けさせたいのか。そんなことを知つたとて「理解」が進むことは無く、むしろ差別問題を惹起するであらう。
一層問題なのは「多様性を受け入れる精神を涵養し」といふ文言だ。精神(心)にまで踏み込むなら、美醜についての個人的な好悪まで問題視することになる。美を感じる心と醜を感じる心は同じ心の裏表なのだから、ある個人が醜と思ふものを受け入れよと言ふのは美を感ずる心を後退させよと言ふに等しい。それに、愛国心や道徳心や国歌斉唱に「内心の自由」を盾に反対して来た連中はどうして黙つてゐるのか。二枚舌にも程がある。
当然のことながら、「不当な差別はあってはならない」といふ条文も非難を浴びてゐる。そもそも我が国において「性的少数者」なる人々が本当に差別されてゐるのだらうか。TVには連日その種のタレントが登場して人気を博してゐるし、所謂「おかまバー」なども盛況と聞く。だから、憲法十三条と十四条の「個人の尊重」「法の下の平等」で十分であつて、彼らを特別に理解したり保護したりする法律の必要性など微塵も無いのである。「共生する社会の実現」なんぞ既に行はれてゐるし、こんな法案は不要とする当事者も大勢ゐると聞く。
以前にも書いたが、公衆の前で罵つたり、選挙権を剥奪せよなどと主張すればそれは「差別」といふことになるが、普通の人間関係が結べれば問題無いのである。
リベラル思想の父とも言へさうなJ・S・ミルも、他人の行為について社会が嫌悪や非難を表明する手段として「忠告、指示、説得、回避」までは認めてゐるのである(『自由論』早坂忠訳)。「回避」といふのはこの場合「敬して遠ざける」ぐらゐの意味であらう。ともあれ、本稿が出る頃には法案が廃案となつてゐることを願はずにはゐられない。(令和五年六月号)














