先月、作家にして法政大学教授の島田雅彦が、自分のネット番組「エアレヴォリューション」で安倍元総理の暗殺について「成功して良かつた」と発言したことにより、保守系の識者たちや一般の常識人たちからの批判が噴出した。おそらく今号が出る頃には粗方の批判は出尽くしてゐると思ふが、ここでは少し視点を変へて批判してみたい。
まづ、島田の発言は「つい口に出てしまった」(「夕刊フジ」への回答)ものらしい。気の置けない友人などと世間話や政治談議をしてゐる際に少々過激な言葉が口を衝いて出るといふ経験は誰にもあるだらう。しかもこの場合、鼎談相手が青木理、白井聡といふ札付きの極左であり、親しい仲間だからたまたま出た発言かも知れぬ。しかし、問題は「口にした」ことではなく――言ひたかつたら言へば良い、だが、覚悟して言へ、といふのが私の立場――島田の思考の中に暴力を是認する「造反有理」の考へが明確にあること、そして批判されると本音を糊塗し、自己保身に走るその卑劣な姿勢である。
この発言に先立つこと八年前、即ち改憲論議が盛んになり始めた平成二十七年、島田は「朝日新聞」に「憲法という経典」といふ誤謬に満ちた噴飯ものの駄文を寄稿した(五月二日)。表題は、「聖書がキリスト教世界の共通の倫理である博愛、寛容、自由の拠りどころであるように、憲法も日本人の倫理の経典であり続けた」から来てゐる。それにしても驚くべき解釈ではないか。聖書が「博愛、寛容、自由の拠りどころ」といふのは途方もない誤解である。旧約聖書の「ヨシュア記」を読んだことが無いのか。また、「新約聖書は非人間性の宣誓書、大規模な大衆詐術である」と言ふドイツの神学者ヨアヒム・カールの痛烈な批判も知らないのであらう(『キリスト教の悲惨』高尾利数訳)。この本は法政大学出版局から出てゐるのだが……。
憲法が我々日本人の「倫理の経典」などとは如何なる憲法擁護派でも思い付かないのではないか。倫理とは行動や思考の基準となるもので、一種の道徳なのだから、聖書に何らかの倫理が書かれてゐても不思議は無いが、法律が倫理を規定してゐるとすることに何の疑問も抱かないのだらうか。
事程左様に、この約四千字からなる寄稿文は誤謬、曲解、誇張に満ちてゐる。勿論、この文章の中で、安倍首相を暗殺すべしなどと書いてゐるわけではなく、抑へた筆致で書かれてゐるけれども、改憲派としての安倍首相への憎悪ははつきりしてゐる。改憲派は「『世界の警察』の片棒を担ぎたくてしょうがないようだが」と左翼の好きなストローマン論法(ありもしない架空の状況を前提にして、それを批判する論法)をチラつかせ、「そうすれば戦後日本が積み上げてきた信用は全て失われる」とか、「『戦後レジームからの脱却』というような政治方針も全て支離滅裂」と誇張して全否定してゐるし、また、自民党の改憲案や有事法制では「有事の際は国民も動員されることになる」とか、「国民を国家の暴力から守る憲法から、国民を戦争に駆り出せる憲法へ」とか、「朝日新聞」の愛読者が喜びさうな文言のみが並んでゐるのである。
それに何より、島田は破壊活動防止法に基づく公安調査庁の調査対象である日本共産党の積極的支持者であり、昨年九月に開かれた「日本共産党創立百周年記念講演会」に談話を寄稿し、「今後も日本共産党を支持して行く」としてゐる(ウィキペディアより)。歴代政府も共産党は「暴力革命」の方針を変更してゐないとする政党である。
であるならば、今回の発言について「思想・表現の自由」を盾に堂々と反論したらどうか。大正の昔、山縣有朋が肺炎で八十五歳で没し、その国葬が行はれた二日後に、「人は適当の時期に去り行くのも、また一の意義ある社会奉仕でなければならぬ」と石橋湛山は「小評論」に書いた(『石橋湛山評論集』岩波文庫)。そして続けて、「貧民の納めた税金で国葬とは何事か」との衆議院での国葬反対論に対して「然り、然り」と書いてゐる。意見の正否はともかく、堂々たるものではないか。湛山は戦後、短期間で終はつたとは言へ、総理大臣になつてゐる。
一方、島田は「夕刊フジ」の質問への回答――腰の引けた詭弁――を公表した。冒頭で「テロの成功に肯定的な評価を与えた」と自認しながら、「殺人を容認する意図は全くありません」といきなり矛盾したことを言ふ。そして、犯人の「旧統一教会に対する怨恨には同情の余地」があると書いてゐるが、これは、同情したので「殺人を容認した」と言つてゐるに等しいし、安倍元総理と教会との希薄な関係性が判明してゐる以上、政治的な為にする議論であり、とても学者とは思へない言葉である(尤も、法政大学のHPを見ると、島田は論文の業績欄に、週刊誌への寄稿記事、雑誌の対談、詩集などを挙げてゐて、研究論文を書いたことが無いのだ)。
さらに赦し難いのは、「襲撃事件を言論に対する暴力と捉える場合、(略)政権の言論、報道への介入、文書改竄、説明責任の放棄といった負の側面が目立たなくなる」と、ありもしない因果関係を捏造してゐることだ。百歩譲つて、仮に「政権の言論、報道への介入」があつたとして、その政権は関係者を殺したのか。
そして最後に決定的な誤謬の論を展開する。「民主主義への暴力的挑戦と捉えると、国会軽視や安保三法案の閣議決定など民主主義の原則を踏みにじるような行為を公然と行ってきた政権があたかも民主主義の守護者であったかのような錯覚を与えるという面もあります」と書いてゐるが、島田が全く理解してゐないことは、安倍元総理はクーデターで政権を握つたのではなく、「民意」の表れとしての選挙で選ばれ続けた政治家だつたといふことだ。「民主主義の原則を踏みにじる」とは一体何のことか。民主主義の第一原則は多数決ではないか。そして、「民意」が支持する政治家を暗殺するといふことは民意を殺したといふことにほかならず、それこそ民主主義を「踏みにじる行為」だといふことがどうして分からないのか。「朝日新聞」を愛読し、左翼勢力の中で長年スター扱ひされてゐると、ここまで知的水準が落ちるのかと些かの憐憫を禁じ得ない。
島田は後日、今度は自身のツイッターで「夕刊フジが私の釈明文を掲載しつつも、誤解を拡大し、炎上を煽る紙面作りをしたことに対し(略)強く抗議します」と書いた。私が読む限り、有本香、門田隆将らの批判は正当なものであり、編集部による経緯の説明なども「炎上を煽る紙面」では全くなかつた。
「言論の自由を行使して人を傷つけたりなんかしておいて、それについて罰を受けるなり制約を受けたから自由の侵害であるなどと称するのは、とんでもない間違い」だと、往年のギリシャ哲学の泰斗田中美知太郎はある講演で語つてゐるが(「自由の意味」『人間であること』文春学藝ライブラリー)、島田はまさにさうした「とんでもない」人間なのである。
この種の左翼作家と言へば、私は今年三月に亡くなつた大江健三郎を思ひ出すが、大江が文化勲章の受章を拒否したのに対し、島田は昨年、紫綬褒章をちやつかり受章してゐる。それでゐて、何が「エアレヴォリューション」であらうか。(敬称略)(令和五年五月号)















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