思はず小欄は嘆息した。先月十四日、札幌高等裁判所が下した同性婚裁判に対する判決のことだ。
周知の如く、憲法第二十四条一項には「婚姻は、両性の合意に基づいて成立し…」とある。だが判決文はこれを「個人の尊重」といふ観点で解釈するべきで、この条文は「異性間の婚姻のみならず、同性間の婚姻についても、異性間の場合と同じ程度に保障している」と極度に恣意的な結論を下したのである。この裁判官は日本語が読めないのか。「誰と婚姻するか」はもとより自由であるが、どのやうな屁理屈を弄しても「両性」といふ大前提は変はるまいに。
また、「性的指向は生来備わる性向である」といふ非医学的な謬見も含んでゐる。
さらには、「同性婚を定めた場合の不利益、弊害の発生はうかがえない」とも言ふ。これは「他人に迷惑が及ばない限り自由である」といふリベラリズムの根本思想だ(この思想は、究極的には一夫(婦)多妻(夫)制への移行をも言ひ出すであらう)。しかし、不利益も弊害も出ないとの先の主張は、選択的夫婦別姓推進派と同様で、想像力が足りないか、分かつてゐながらのお惚けである。
八木秀次によれば、これまで同性婚の法制化がなされなかつたのは、「婚姻が生殖と子の養育を目的とする制度であることから子供の扱いが問題となるから」である(「産経」昨年七月四日)。
同性婚カップルが子供を欲しがることもあり得よう。さうなると生殖補助医療の利用か養子縁組をするしかない。前者においては我が国で代理出産は認められてゐないので海外での医療を頼るしかなく、それには莫大な費用が掛かるから、裕福なカップル以外には無理であり、そこでまた不毛な差別論争を引き起こすであらう。また、後者も様々な問題を含む。二〇一三年五月に同性婚が認められたフランスでも、「実親子関係の成立に関する規定は〔自然生殖の無い〕同姓カップルには適用されない」のである(石綿はる美「東北法学会報」第三十七号)。
それに、養子を迎へることが出来ても、同性の「両親」のもとで育つた場合、子供の成長にどのやうな影響があるかは、特に我が国では未知の問題であらう。さう簡単に「不利益、弊害の発生はうかがえない」などとは言ひ切れぬのである。
そして、来年度から使用される検定済の中学校用教科書には早速、生得的性別を相対化するやうな記述も出て来た。また、公立の小学生に対して「特別授業」と称する狂気のジェンダー教育も既に始まつてゐる。
他にもあるが、以上はすべてLGBT法の毒が我が国を蝕み始めてゐる証拠である。この悪法は何としても廃止せねばならない。(令和六年四月号)














