肝心なのは自由への執着を断ち切る術を学ぶことだ。そのときに生まれる自由とは、叡智の別名にほかならない。――アンドレ・コント=スポンヴィル
アメリカには「ポリティカル・コレクトネス」(政治的公正)といふ考へ方があり、肥満体型をfat と言つてはならず、horizontally handicapped(水平方向に難あり)と言はねばならなくなつてゐると、ある講演会で私が初めて聞いたのは平成七年(一九九五)だつた。現在では後ろの過去分詞はchallengedが推奨されてゐるらしいが、いづれにせよ馬鹿げた話で、私も含めて聴衆は悪い冗談と解して苦笑ひをしてゐたと記憶してゐる。
だが、今にして思へば、その二年ほど前に、筒井康隆の短編小説「無人警察」が高校の教科書に載つたことで、「日本てんかん協会」が「てんかんに対する差別を助長する」として教科書の発売中止と作品の教科書からの削除を求め、これに対して筒井が「断筆宣言」をして逆抗議し、さらには部落解放同盟まで記者会見を開くなど、表現の自由と差別を巡り大論争に発展した(事の顚末は週刊文春編『徹底追及「言葉狩り」と差別』を参照)。そして、この論争の中で、主要マスコミには自主規制によつて「言い換えリスト」や「禁句」なるものが存在したことが明るみに出て世間は驚いたものだ。例へば、「士農工商」「気違いに刃物」「文盲」などは禁句。「処女作」は「第一作」、「興信所」は「民間調査会社」、「老婆」は「老女」への言ひ換へなど、意図不明なものがかなりあつた。先の講演者もさうした時代背景との関連で触れたのかも知れない。
当時のこの「言葉狩り」騒動は専ら作家やマスコミ関係者の問題として注目されたのだが、あれから四半世紀以上を経た現在、「ポリコレ」やら「〇〇ハラ」やらの言葉で多くの同胞がかまびすしく「差別」を口にするやうになつた。
勿論、それはポリコレ先進国アメリカの影響であるが、そのアメリカのポリコレとは「要するに『反差別』を錦の御旗にした左翼イデオロギーの押し付け」(島田洋一氏、本紙二月号)であり、当然ながら日本での現象にも共通項が見て取れる。一つには、「差別だ、差別だ」と騒ぎ立てるのは決まつて左翼人士であり、二つには、主導するのも左翼政党の政治家たちや左傾化したインテリたちが多いことだ。そして彼ら彼女らがSNSなどで囀り(さへずり)、それをあまり思考力があるとは思へない連中が取り上げて反応し、大きな「トレンド」となるといつた構造が見られる(「共産党SNS作戦」といふものもあるらしい)。
しかし、言ふまでも無いが、文化、即ち、言葉も歴史も、そして人間関係や家族関係の在り方から生き方まで異なるアメリカの真似をする必要は毛頭無いのである。しかも日本にアメリカのやうな人種差別は無縁だ(一九一九年のパリ講和会議において、国際会議史上初めて人種差別撤廃を訴へたのが日本であり、それを潰したのが米国のウィルソン大統領だつたことは象徴的である)。
最近のアメリカからは「アーメン」はmen だけのものでは無いとか、heやsheはやめようとか、およそ馬鹿馬鹿しい話が聞こえて来る。日本でも単に個人的な好悪や嗜好や性癖の問題を差別の問題であるかのやうに論じたり、紅白歌合戦やコンビニの「お母さん食堂」が問題となつたりと、児戯に類する問題の立て方が目立つ。 序でに言へば、モーパッサンの小説の邦題「女の一生」やモリエールの韻文喜劇「女学者」、或いはTV番組「おんな酒
場放浪記」にしても、これらを「女性」と言ひ換へることはできない。それが文化といふものだ。
かうした差別論の中で、私が腰を抜かさんばかりに驚いたのは、昨年の七月二十九日の『朝日新聞』に載つた論壇時評である。執筆者は林香里氏で、東大の副学長だ。問題の個所は出口真紀子上智大教授の文章(注を見ると「執筆・佐々木将史」とあるので、その辺の事情が良く分からないが)を引用した次の個所である。少し長いが、要約しにくいので全部を引用する。
「出口は『自分は差別なんてしていない』という人たちに対して、自分たちが『労なくして得ることのできる優位性』という『特権』をどれだけもっているか、自分たちがマジョリティを形成している部分に想像力を働かせよと問いかける。たとえば、朝日新聞読者の多くはおそらく、日本語がわかり、日本国籍をもつ『日本人』という特権を享受していることを認めないわけにはいかないだろう。もちろん、それだからといってバラ色の人生ではない。とはいえ、そのこと自体が、そうでない人たちに抑圧的に働くことを自覚せよというのである。社会には、特権をもつ人ともたない人との間に、無意識の行為によって生まれる構造的差別が存在し、多くの人がその部分に重なり合っているというのだ」。
これほど自虐的且つ偽善的な文章を私は読んだことが無い。「日本人に生まれて悪うございました」と思へといふことではないか。そして、我々は「日本人という特権」を有し、無意識に「構造的差別」に荷担してゐると指弾するのである。ここに彼ら左翼インテリの思考が典型的に表れてゐる。つまり、煙の無いところに火を探し、大袈裟に「差別だ」と言ひ募り、文化を混乱に陥れ、国民を不安にさせて分断しようとするのだ。さらには「ダイバーシティ」だの「インターセクショナリティ」などの熟(こな)れぬ外来語で知的意匠を凝らすことは忘れない。
それにしても、片や最高学府の副学長、片や有名私立大学教授である。彼女らに日本国籍を持つこと以上の「特権」は無いのだらうか。あるに決まつてゐよう。地方の大学ではあつたが、私もまた大学教員として数々の「特権」を享受したといふ自覚がある(おそらく今も)。自らの特権に無自覚な人間が他者の痛みに敏感な道理は無い。「偽善」と言ふ所以だ。
ともあれ、「ポリコレ」は本来的に人間の「自由と平等」に深く関係してゐる。無論、それらは封建時代ならぬ現代においては重要である。けれども、彼らは程度と言ふことを知らず、無際限にそれらを追ひ求めることができると思つてゐる。が、それは皮相な考へであり、人間を幸福にするものではない。左翼の思想家に人生論や幸福論がほとんど無いのはこれが理由だ。
際限の無い自由は、案に相違して不自由を生む。ふだん仕事で忙しくしてゐる人が、急に休暇を与へられても何をして良いか分からず、却つて不自由な思ひをすることがある。和歌や俳句も制約あつての美であらう。
優れた人性洞察家だつた福田恆存は「自由とは、所詮、奴隷の思想ではないか。(略)自由によつて、ひとは決して幸福になりえない」と書いた。際限の無い自由を内に求めると「孤独」にぶつかり、外に求めると「特権階級への昇格」を目指すといふことになり、それは「奴隷の思想」だと言ふのだ(『人間・この悲劇的なるもの』新潮文庫他)。リベラル左翼は徒党を組むのが好きで「孤独」を嫌ふから、必然的に外に向かつて「特権」を得ようとする。そしてその特権を奪取するのに邪魔なものを「差別」だとして打破しようとするのである。かうして、文化や歴史や伝統に弓を弾くことになるわけで、何と不自由な連中かと私は思ふのである。〈了〉(敬称略)(令和四年四月号)















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