LGBT法に関して、私はたまたま手に取つた雑誌の中で、本当にその通りだと思ふ言葉に出会つた。それは、「本当の理解増進法は、社会が性的少数者の実情を理解するだけでなく、性的少数者が社会を理解することも目指さねばならない」といふ三浦俊彦(東大教授、哲学)の指摘である(「アカデミズムを蝕むトランスジェンダリズムの利権」『紙の爆弾』令和五年六月増刊号「多様性と排他性」)。
法案成立の少し前に書かれたこの文章(記事A)は、三浦がネットサイト「トカナ」に四年前に書いた別の記事(記事B)について、東大の関係者たちが連名で「差別的かつ事実誤認」だとネットに抗議文を掲げ(三浦俊彦で検索可能)、それに対して三浦はすぐに「トカナ」に反論(記事C)を書き、四年を経た昨年、それらを総括しつつ抗議勢力を新たに批判したものである。
三浦は記事Bでトランス女性を揶揄するやうな「低品位な文体」で書いたことは謝罪したものの、「コットン・シーリング」(煩瑣なので説明は割愛)を巡る事実誤認は抗議文の方にあり、また、記事の目的は「トランス〔ジェンダー〕支援がなぜか『性別変更促進』と同義になっていくという現状」への批判であつたと補説してゐる。「性別変更促進」とは、一定の手術などを課さずに性別変更を認めようとすることであり、一方、三浦は平成十五年制定の「性同一性障害特例法」(性別適合手術を義務化)を支持してゐるのである(その後、周知の通り、昨年十月に最高裁大法廷が性別変更に際して生殖能力を除去する手術は憲法違反であるといふ判断を下した)。
三浦が哲学者であるためか、その文章は良く言へば精細、悪く言へば回りくどくて分かりにくいものであるが、全体を見渡して、私が審判なら三浦を圧勝とする。
私が抗議文で最も問題だと思ふ個所は「〔記事Bの主張は〕現時点で国際的に共有された学術的なトランスジェンダー理解や、トランスジェンダーの人権に関する一般的な国際的合意にはそぐわない」との主張である。そんな理解や合意は断じて無いし、それがあつたとしても、「日本で同様の法制度に向かうべきだという規範言明の理由にはならない」「いまだ銃犯罪や差別に揺れる国々のうわべの倫理を模倣するよりも、日本が独自に一歩先を歩み、彼らに対し模範を示すべき時である」(記事C)との主張は全くの正論である。
それから、「〔記事Bが〕トランスの若者たち、そしてまた若いレズビアンやバイセクシュアルの女性たちの学習環境や社会生活を損ない、また、学生をはじめとする若い人々がトランスジェンダーに関する基本的な理解を身につける妨げになりかねないことを、危惧する」に至つてはその大袈裟な口吻に鼻白むばかりである。記事Bが若い性的少数者の「学習環境や社会生活を損なう」などといふことは決して無いし、抑々「トランスジェンダーに関する基本的な理解を身につける」とは一体どのやうなことか、不明確極まり無い。これほどデタラメな抗議文に「東京大学出身の、あるいは東京大学に在籍する/したことのある教員・研究者」が五十七人も署名したことは驚愕に堪へない。
そして、読者にさらに驚愕して貰はねばならぬことがある。三浦の記事Aで教へられたことだが(予備校サイトで確認済み)、東大の英語の入試問題(令和二年度)にも、まるでジェンダーに関する「国際的に共有された学術的な理解」があるかのやうに、つまり、虎の威を借る狐の如く、大手を振つて作られた問題が出されてゐるのである。
それは長文問題で、ノンバイナリー(男でも女でもない)といふ性自認を持つ筆者が少女時代を回想したエッセイである。野球や青色を好む自分は「女の子らしくない、女の子ではない」と悩んでゐる。実際にさうした少女もゐるに違ひないが、問題はここからだ。筆者の弟がボーイスカウトのキャンプに行つている間に、筆者とその姉妹たちがよく連れて行かれたのはどこか、といふ設問があり、選択肢には、バレエ観劇、フットボール観戦、病院、ショッピングの四つが用意されてゐる。要は「女の子が連れて行かれそうなものを選べ」といふのが出題意図なのだ。三浦の言ふやうに「正解以外が文法的に排除されるなら合理的な質問だが、そうなっていない」のである。英語力ではなく、女の子だからバレエ観劇に連れて行かれるはずだといふ紋切型の想像力を発揮せよと促してゐるのだ。三浦は言ふ、「そんな思い込みはいけないというのがポリコレだったはずではないか。それを棚上げして、古い性別規範を肯定せよと受験生に要求。そうして入学してきた学生に対し『性別規範を疑え』とジェンダー論の授業でお説教。自らの教育の需要を自ら作り出すマッチポンプだ」と。実に鋭い指摘と言ふべきである。
三浦の記事Aは続けて、三人称単数代名詞に敢へてtheyを使ふ設問の存在を指摘する。つまり、本人の性自認に合はせた代名詞――日本ではまだ一般化してゐない――の使用を一種強制力の働く入試問題の中で押し付けてゐるわけだ。これも「国際的に共有された学術的な理解」とやらに寄り掛かつたイデオロギッシュな設問ではないか。
もはや十分であらう。最も影響力のある東大の入試問題がこれほどまでにジェンダー論に「汚染」されてゐるのである。私の経験から言へば、入試問題作成は極めて慎重に行はれ、担当学科以外の同僚も含め数回に亙る校閲を受けるので、この年の東大の入試関係者は右の設問を許容したことになる。
この出題者が先の抗議文に署名した連中の中にゐるのかは分からない。けれども、署名した五十七人のうち、日本学術会議の「連携会員」――そのおよそ九割が後に会員となる――が六名存在し、そのうちの一人に林香里がゐる。この林は、私が本紙令和四年四月号「際限無き自由の追求」で批判したやうに、我々日本人は「日本人」といふ特権を持つてゐて、無意識のうちにさうでない人々への「構造的差別」に荷担してゐると書いた御仁だ(「朝日」令和三年七月二十九日)。要するに、日本人として生きてゐることに罪の意識を持てと説いたのだ。その林は東大副学長である。林に問ひたい。あなたは日本国籍を持つこと以上の「特権」を享受したことは無いのか。あるに決まつてゐよう。自分の特権に無自覚な人間ほどかういふ偽善的言説を垂れ流すのである。
ところで、これを書いてゐる折も折、東大が「性的志向と性自認の多様性」についてガイドラインを公表した。「産経」(二月十五日)によれば、その趣旨説明として、「これまで主流であった男女の二分法にもとづく社会のあり方を問い直す」と書かれてゐる。いくつかの「障害」の具体例が挙げられてゐて、教員が学生の名前に「さん・くん」を付けて呼ぶことも「性別に従った呼称」として退けられるらしい。やがては、フランスの真似をして保護者の提出書類に「親1、親2」と書かせるつもりかも知れない。しかし、学内でのみ公表されたガイドライン案の意見公募に応募したのは約百四十人とのことで、全学生数の〇・〇〇四九%に過ぎないのも一方の事実だ。
冒頭に引いた三浦の言葉通りで、性的少数者が社会を、そしてその社会には「健全なる無関心」といふものがあるといふことを理解することも必要なのである。(敬称略)(令和六年六月号)














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