左翼リベラル連中が内患を作るべくまたも蠢動してゐる。「子ども家庭庁」設立と「子ども基本法」制定である。その推進側の思想的偏りは高橋史朗などが夙に指摘してゐて、なるほど、「こども政策の推進に係る有識者会議」の構成員を見ると、NPOの看板の下に怪しい左翼組織の人間が紛れ込んでゐる。
この会議で使はれてゐる言葉自体も疑問だ。「Children First」はまだマシで、「こどもまんなか」には呆れるほかはない。他にも、「Well-being の向上」とか「プッシュ型支援、アウトリーチ型支援への転換」など、意味不明なものもある。最も驚いたのは、「子ども」といふ文字遣ひが行はれてゐる理由である。「供」は「大人のお供」「家来供」など、「従属的、隷属的な差別用語」だと日教組が言つてゐるらしい。馬鹿馬鹿しい言種だ。付き従ふのは「お伴」であり、供は人が両手で玉器を差し出す形声文字で、供へる、設けるの意だ。一方、複数を表す接尾語でもあり、子供については複数の意味が薄れただけのことである(『新潮日本語漢字辞典』)。差別語である道理が無い。
左翼リベラルは煙の無いところに火を探す。だから枝葉末節に拘り、それを針小棒大に表現する。厚労省も「日本の子供の七人に一人が貧困」と言ふが、「貧困」の定義が曖昧なのであまり意味が無いし、親の生活態度の問題もあらう。勿論、子供を巡る問題が数多あるのは否定しないし、特に親による虐待を防ぐことは重要である。虐待の極致である子殺しも実は昭和三十年代に比べれば減つてはゐるのだが(『本当は怖い昭和30年代』鉄人社)、減つてゐるから良いと言ふものでは無論ない。
平成三十年三月に東京で五歳の女児が親によつて虐待死させられた。児童相談所と警察とで虐待情報の「全件共有」がなされてゐれば助かつた命であらう。この「結愛ちやん」事件を契機として全件共有の必要性が認識されたが、今なほ全国の児相の約四割が実施してゐるだけだ。虐待を本当に無くすには警察との協力が不可欠だが、反権力の連中は肯じないだらう。
それにまた、裁判官と左翼弁護士が金と保身のために結託した真におぞましい「実子誘拐」が跡を絶たず、毎年十五万人以上の子供が片方の親との面会交流の機会を奪はれてゐるのだ(池田良子『実子誘拐のビジネスの闇』飛鳥新社)。国連の「児童権利条約」第三条に明白に違反してゐるにも拘はらず。
これらを放置しておいて「子どもの権利」を声高に叫ぶのは他に理由があるからだらう。子供に際限の無い「権利」を与へることより、「護る」ことのはうが遥かに重要である。(令和四年二月号)














