自民党の新総裁が決まり、公明党が自民党との連立から離脱することになつた。そして、次の首相は誰かと永田町を中心に日本中が喧しい十月十日、「解決済みの歴史問題を無用に掘り起こす」等々の事前の批判にも拘はらず、石破茂首相が「戦後八十年所感」を発表した。タイミングの悪さもあつてか、あまり話題にならなかつたやうだが、想像通り、小心の宰相らしい視野の狭い歴史観の披歴に終始し、我が国を裨益することの無い独り善がりの作文であつた。
「産経」の阿比留瑠比記者に至つては「あくまで国内の問題に限られ、日本が置かれた国際情勢への言及は乏しい」「所感は首相の思い出作り、自己顕示と存在証明のための政治の私物化」と扱き下ろした(「産経」十月十一日付)。全くその通りであり、私の大きな不満も「戦争には相手が居るが、その相手のことに触れずして戦争を語ることができるのか」といふ一事に尽きる。
確かに、石破の言ふ通り、「大日本帝国憲法」には欠点や未熟な部分があつた。「『文民統制』の原則が、制度上存在しなかった」との石破の指摘は間違つてはゐない。「帝国憲法」には内閣や首相の明確な規定が存在しなかつたからである。昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の調印が海軍軍令部の不興を買ひ、それ以降、軍部の発言力が強まり、「統帥権干犯問題」を惹起し、軍に対する統制を議会が失つたかのやうに石破は言ふが、それは「帝国憲法」の欠陥のせいばかりとは言へまい。軍人だけが理解してゐた危機感といふものもあつたのではなからうか。
石破が「満州事変」を専ら軍部の擡頭に帰してゐるやうだから、私も言及することにする。
当時、日本はポーツマス条約により、旅順と大連の租借権と、南満洲鉄道の権益を獲得してゐたため、満洲には大勢の日本人が居住してゐた。ところが、国民党政府が成立してから、蒋介石は日本が満洲に保持する既得権益を獲得する政策に乗り出した。そして、反日感情を煽つた結果、排日・悔日運動が激化し、日本人居留民がたびたび襲撃され、殺傷されるといふ事件が頻発するやうになつた(鉄道妨害が頻発し、中村震太郎大尉が国民党軍により殺害される事件などもあつた)。かういふ排日運動に対処するために、また、張作霖が日本依存の政策を英米依存に切り替える動きが見えたために、関東軍作戦主任参謀だつた河本大作大佐や石原莞爾中佐が起こしたと(教科書などで)されてゐるのが満洲事変であるが、これも最近では、ソ連諜報機関による犯行説も出てゐる(当時の駐北京英国公使から自国の外相に宛てた分析による)。
ともあれ、当時の大陸には統一政権はなく、軍閥による内乱状態にあり、石原はソ連の南下(日本が最も恐れていたことの一つ)を阻止するために満洲北部を押さへなくてはならず、そのためには日本が満洲全体を領有する必要があると考へた。その頃、ソ連が満洲付近に大軍を集結させてをり、関東軍の危機感は相当のものだつたのではないか。かうした中で、関東軍は武力で張学良・蒋介石の勢力を満洲から排除したのである。
以上を要するに、満洲事変は、ソ連の軍事的脅威を跳ね除け、かつ日本人居留民を保護しようといふ動きの中で起きたのだつた。その意味で、事変は日本国内でも支持された。新天地満洲は日本にとつて重要であり、そもそも日露戦争以来、満洲における日本の権益は正式に認められてゐたのだ。それに満洲国の独立は、清朝滅亡後の満洲人の念願だつたのであり、日本が支援し、巨額の費用を注ぎ込み、安全で清潔な都市を作り上げた。満洲国がもしも「傀儡国家」だとしたら、なぜ当時、年間百万単位の移民が続々と満洲にやつて来たのか。満洲の人々が支那人から逃げたかつたからであらう。満洲事変以前の二十年間で、満洲地域の人口は一八〇〇万から三〇〇〇万に増へ、貿易額も六倍に激増してゐて、そのため、関東軍が事変を起こすと、たちまち各地に親日的な自治政府ができ、満洲国建国に至つた。もちろん、満洲独立が我が国の国益にかなつたといふ面も当然あるけれども、だからと言つて、満洲を恣に搾取しようといふものではなかつた。「共存共栄」を図つたといふのはあながち牽強付会ではなかつたと思はれる。
満洲事変の六年後、一九三七年七月七日に盧溝橋事件が起きる。これは演習中の日本軍が銃撃を受け国民党軍と一触即発となつた事変である。両軍をけしかけるために共産軍が密かに発砲したことは今では明らかになつてゐる。日本はこの時、隠忍自重し戦火の不拡大に努め、幸ひに四日後には停戦協定が結ばれた。しかし、それ以後、支那軍による挑発行動が何度も繰り返され、執拗な反日宣伝も行はれた。その中で、最も大きな事件は七月二十九日、支那の通州保安隊が、日本軍人一一〇名、居留日本人二二三名を猟奇的に惨殺した通州事件だつた。この時の虐殺方法は実に酸鼻を極めたもので、報道により日本国内では対支強硬論が高まつた。それに対して、石原自身は不拡大方針を取らうとしたのだが、結局うまく行かなかつた。その理由は支那側にあつた。和平への過程といふものは複雑で、望んでも簡単には実現しないといふことは、昔も今も変はりはないと知るべきであらう。
実はこの時、ソ連のコミンテルンが中国共産党に出した指令書があつたのだ。要点は「あくまでも局地的解決を避けて、日支の全面衝突に導くこと」(そのためには日本に譲歩する要人は抹殺してよい。国民政府をして開戦の已む無きに至らしめよ、等々)だつた。
これでは戦争にならない方がをかしい(米国が支那に武器援助をし続けてゐたといふこともあつた)。中国共産党は蒋介石の国民党と日本軍を戦はせ、国民党を弱体化させたかつたので、この指令書に沿つた動きをしたわけである。蒋介石は八月十四日、上海を爆撃し、上海租界の日本人や欧米の民間人一七〇〇人以上が死亡したと言はれてゐる。翌日、日本は軍隊の上海派遣を決定、遂に全面戦争となつたのである。
アメリカとの関係にも少し触れておく。アメリカでは「排日移民法」が一九二四年に成立。これは平和と協調の象徴と言はれたワシントン会議(一九二一―一九二二)の破綻を示すものであり、これにより、日本人は完全に米国移民の道を閉ざされ、以後、満洲を民族の生命線として見做して行くやうになる。満洲事変はこの「排日移民法」の七年後であつた。
そして、東亜における「反共・和平」の意義を理解しなかつたアメリカは在米日本資産を凍結、対日石油全面禁輸に踏み切り、イギリス、オランダ、中華民国を加えた四ヵ国による対日経済封鎖、所謂「ABCD包囲網」が形成されて行つた。そして、東條英機らによる戦争回避の努力も虚しく、米国は最後通牒と言ふべき「ハル・ノート」(国務長官の名前からこのやうに呼ばれた)を日本に突き付けて来たのである。これは、八ヶ月に及ぶ日米交渉を全く無視するもので、これの受諾は日清戦争後の日本に戻ることを意味した(米国は十二月に日本軍が米国攻撃をすることを暗号解読により知つてゐた。しかも、陸軍長官スチムソンの日記によれば、ルーズベルト大統領はスチムソンに「日本が先制攻撃をするやうに《追ひ込む》」ことを指示してをり、それは米国民の厭戦気分を打破し、ドイツと同盟を結んだ日本を叩いて友邦イギリスを助けるべくヨーロッパ戦線に参戦する口実を作るためだつたといふのが現在の定説である)。
この「ハル・ノート」が如何に過酷なものであつたかは、「極東国際軍事裁判」(通称「東京裁判」)で日本の無罪を主張したインド代表のラダ・ビノード・パール判事の言葉が総てを物語つてゐるので引用する。「アメリカ政府が日本政府に送ったものと同じ通牒を受け取った場合、モナコ公国、ルクセンブルク大公国のような国でさえも、アメリカに対して武器を取って起ち上がったであろう」といふものである。我が国の苦渋の判断を理解してくれた名言と言へよう。
閑話休題。このやうな海外の情勢に触れずに、石破のやうに「政府の問題」「議会の問題」など、国内的なシステムの欠陥や未熟を論ふだけでは、どうして我が国が戦争をしなければならなかつたかは到底理解できない。欠陥や未熟はどこの国にもあるではないか。
小林秀雄が戦後すぐの座談会で、「この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起こったか、それさえなければ、起こらなかったか。(略)僕は歴史の必然性というものをもっと恐ろしいものと考えている。僕は馬鹿だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と言ひ放つたことはよく知られてゐる。このことについて、独文学者で中央大学教授だつた松本道介(一九三五―二〇一七)は、「私は小林の言葉がこの上なく当然な常識論だと思われてならない」と言ひ、その理由を次のやうに書いてゐる。「無智であろうとなかろうと、戦争を反省することなど出来る筈がない。反省というのは選択肢あっての反省である。過去にああすることも出来た、こうすることもできたという選択肢があってこそ、ああすべきだった、こうすべきだったという反省が可能になるが、(略)何をどう反省すればよいのか、反省することなどこれっぽちもないではないか」と。
そして、当時の日本を取り巻く国際情勢に触れ、我が国が独立を保たうとすれば「脱亜入欧」を、即ち、欧米列強への仲間入りを目指すしかなく、それは覇権国家の生存競争に否応なく巻き込まれることを意味し、戦端を開くに至つたことはほとんど運命であり、「運命とは選択出来ないから運命なのであり、運命を反省することは出来ない」と指摘してゐる(『視点』巴書房)。全くその通りである。だから、私はしばしば、「反省」特に、政府首脳の戦争についての「反省」は戦没者や英霊の顔に泥を塗る行為であると何度も書いて来たのである。
政府首脳ばかりでなく、苟も日本の政治家であるならば、ほかならぬ我々の先人たち、英霊たちの既に発言の機会が閉ざされた「声なき声」に耳を傾け、彼らの思ひを今に伝へることこそが使命ではないか。
ペリー来航によりほとんどレイプさながらに日本は門戸を開かされ、アメリカを含む列強五ヵ国と次々に通商条約を結ばされた。しかしそれらは関税自主権を欠き、治外法権付の不平等条約であつた。この屈辱の時代からアメリカに敗北した一九四五年までの我が国の歩みを思ふ時、国の独立を守るために必死で戦つた戦闘行為を含む国策や「脱亜入欧」の思想は、様々な錯誤、失策、蹉跌も含めて私には我が事のやうに愛ほしい。非難する気にはならない。なぜなら、私と血のつながりのある父祖や高祖の世代による懸命な努力だつたからだ。その努力と犠牲の上に、今我々は生きてゐるのではないか。「利巧な奴は反省するがいい」といふ小林の言葉が思ひ返される。
ベルジャーエフの言ふやうに、歴史は「私の歴史、私の運命」として摑まなければ、「歴史的運命」といふものは分からないのである。(敬称略)〈了〉 (令和七年十月十七日)
【参考文献】
・『大東亜戦争への道』(中村粲著、展転社)
・『「広辞苑」の罠』(水野靖夫著、祥伝社新書)
・『日本の戦争 あのときなぜ戦ったのか』皿木喜久著、産経新聞社)
・『戦争は無くならない』(松原正著、地球社。現行は『全集』第三巻、圭書房)
・『パール判事の日本無罪論』(田中正明著、小学館文庫)
・『国史教科書』第七版(竹田恒泰他著、令和書籍)
・「《歴史的なもの》の本質について」(『ベルジャーエフ著作集』第一巻、氷上英廣訳、白水社)















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